【往還集122】38「ヨンア」

 書店に入ってファッション誌のコーナーに来ると、数の多さ、色の多彩さには目がクラクラする。表紙も美女の競演で、ほとんど甲乙をつけがたい。
 ところが、いつのころからだろうか、一冊の表紙に吸い寄せられるようになった。
「Oggi」。
 この雑誌の編集長は鈴木深。彼はファッション誌が付録屋に変わり果てたことを嘆く。そのことを以前の「往還集」にもとりあげ、志やよしと書いたことがある。今度は表紙が気に入って、毎月のように買いはじめた。
 表紙のモデル名が、ヨンアだと知る。このヨンアさん、ただ美人というのではない、どこか鋭利で透明で、大人っぽさがありながら童女性もある。
 こういふ風貌は日本人にはなかなかない。と思ってパソコンや新刊本『ゴー!ゴー!ヨンア』で調べたら、韓国出身だった。
 そうか、やはり。
 自分流に表現するなら、〈歳時記〉臭をまとわない美ということになる。
(12月24日)

【往還集122】37「ため息ののち」

 宮柊二の『山西省』に「おそらくは知らるるなけむ一兵の生きの有様をまつぶさに遂げむ」がある。
 座右の銘にしてきたこの一首を、徹底解明したいと「宮柊二」をはじめたのは二〇〇七年四月のこと。やるからには歌人生成期から見ていかなければと、「初期柊二」を最初の題にした。
次が第一歌集『群鶏』論。それを今日やっと終わった。終わったといっても、目標の入り口にたどり着いたにすぎない。枚数を数えたら538枚になっている。
思わずため息。
 そもそも宮柊二の優れた弟子筋が何人もいるというのに、部外者の自分などが書いていいのか?評論がどんどん売れなくなっている時代、一冊にすることにどんな意味がある?おまけに硬派歌人の人気はがた落ちときている。いまさらなぜ宮柊二なんだといいたげな顔がちらつく。
 ますます溜息が出る。
 —-と愚痴りながら、『山西省』論へ踏み出す準備をはじめている自分。
(12月23)

【往還集122】36「宮沢賢治からのメッセージ」

 賢治学会では冬季セミナーを毎年開催している。今年度は震災に関連させて、東京と仙台で実施することになったらしい。「らしい」というのも、こちらは係でないからわずかな情報でしか知りえない。
 ところがつい先日、仙台セミナーのパネルディスカッションをどうするかという相談があって、驚いた。期日は2月18日。間もなく正月に入って、身動き取れなくなるというのになんで今頃!
 実行委員長をまかせられたというO氏に聞けば、この方面不案内でテーマも未確定とか。急遽関係者に集まってもらって相談。パネルは自分が一切引き受けるこ とにし、すぐに人選。「賢治と震災」のテーマを立てて、富山英俊(英米文学)、石川裕人(演劇家)、加藤碩一(地質学)各氏に速達で依頼し承諾を得る。こ れまでもさまざまな尻拭い体験はあるが、今回は本当に冷や汗をかいた。
 当日はもちろん、何事もなかった顔でやります。
(12月22日)

【往還集122】34「『ピース・ヴィレッジ』(偕成社)」

 『川口常孝全歌集』(砂子屋書房)を朝に少しずつ読んできて、今日『兵たりき』を終わる。
 川口は昭和18年、24歳で第1回学徒出陣。大陸に渡るが病気で帰還し、広島陸軍病院可部分院に入院。そこで被曝のさまを目撃。 この体験を残さずにはいられない。73歳で刊行したのが、『兵たりき』。凄まじい戦争詠・被曝詠だ。
 なかに長歌「渇を癒すと」がある。大陸の激戦のさなか、水をもとめて村落へ入る。赤子の声に一人の兵が家に入る。
 「何事と眼(まなこ)凝らせば その兵の赤子を抱きて 頭撫でわれに託して その母の胸乳(むなち)を探り 懸命に吸い始めたり。その女人静かに応じ 拒 む気配全く見せず 吸わるるに任せて暫し 時の流れに己を委ぬ。ようやくに出ずなりにたる 乳房に深き礼(いや)して その兵のそこを離れぬ。その刹那思 いも寄らぬぬ 極まりし慟哭の声 兵の身を根こそぎ揺すり 朝寒の空気震わす。」
!!!!!!!
(12月15日)

【往還集122】34「荒浜にて」

瓦礫のほとんどが片付いた荒浜一帯。コンクリート製の土台だけが、家屋の面影をとどめている。
防潮林の松林は根こそぎになり、そのまま荒々しく倒れている。

 閖上大橋を渡って、荒浜へ。道路の信号は全て止まったまま。コンクリートの土台が、集落の面影を辛うじて残す。が、田畑の瓦礫はほとんど消えて、巨大な校庭のように整地されている。
 復旧への大きな一歩—-のはずなのに、心のほうが置き去りにされた空虚感が。破壊されつくした家屋や車の凄惨さに、胸潰れんばかりの衝撃をうけたというのに、これはどうしたことだ。
 いまにして思えば、瓦礫は瓦礫なりに人間側に属していた。それすら全て奪われて、完全な無機の世界になってしまった。
 防潮堤に立って、ここにも花束を。砂浜もすっかり片付いている。午後の海の、なんという静けさ。雲の切れ間から、日差しが放射される。彼方には仙台港がある。そこからいま、大型客船が白色の船腹を反照させて出てきた。
 「なにごとかあったなんて、みんなウソ。昔からなにごともなかったさ」海は、聞きもしないのにいう。
(12月7日)

【往還集122】33「閖上にて」

日和山。ここから閖上一帯が眺望できる。
閖上小学校。無人になった校舎。津波をかぶり、ほとんどの草木は枯れたが、サザンカだけは美しく咲いていた。

 あの日から、9カ月になろうとする。閖上の日和山へ。山といっても、ほんの小さな丘。ここに立つと、閖上全体が見渡せる。瓦礫はかなり片付き、だだっ広い 平地が海までつづく。この同じ場所で、何事かがあったなんて、信じられない。泥まみれのいくつかの船、傾いたままの何軒かの家、枯れようとして川べりに立 つ松の木などが、辛うじてあの日の面影をとどめている。
 慰霊の花束をささげ、手を合わせていると、外人の男性がカメラを向ける。通訳らしい女性もいる。話しかけると、「ELMUNDO」記者だという。さらに話を聞いてみると(とはいっても通訳を通じてだが)、3月末から各地を取材していると。
 「外人さんは、真っ先に日本を脱出したのに、よく残っていましたね」とほめる。いざとなれば、他国など捨て去るのがふつう。けれど、被災地にとどまり、肉眼で事態をとらえつづける外人記者もいた。
(12月7日)

【往還集122】32「志賀直哉から」

 ワイド版岩波文庫『小僧の神様』に収録されている11の短篇を味読した。
読み終わっての第一の感想は、「こういう名品を、遺物として葬り去ろうとするなんて!」だ。古書店に行くと、バリッとした全集が、信じられないほどの廉価で積まれている。まさに遺物。
 けれど、何度も読んできた作品というのに、いまの心に共鳴する部分もあちこちにある。「范の犯罪」から。「ああいう過(あやま)りが起るまでは私どもはそ んな事はあり得ないと考えていたのは事実です。しかし今此処(ここ)に実際起つた場合、私どもは予(かね)てこう考えていたという、その考(かんがえ)を 持ち出して、それを批判する事は許されていないと思います」。原発問題を、どうしても思い出してしまう。
 「城の崎にて」から。「自分は偶然に死ななかった。いもりは偶然に死んだ。」「生きている事と死んでしまっている事と、それは両極ではなかった。」今度のことがフラッシュバックして、迫ってくる。
(12月6日)

【往還集122】31「そこに人が住んでいるのなら」

 河北新報のいちばん長い日』を、今日読み終えた。一新聞社の記録を超えて、人間そのものへ突き刺さるドラマがいっぱいだ。1点だけあげる。
 福島総局の記者に、引き上げるよう伝えられる。記者はのちに語る、「そこに人が住んでいるのなら、同じように暮らし報道するのが最低限、われわれの役目のはず」。
 この言に、現職時代最後の修学旅行が甦る。沖縄行と決まっていたのに、9・11が勃発。沖縄はテロにねらわれていて危険という風評が広がる。そのため宮城 県では23校中22校がキャンセル。残る1校が自分の高校。学年集会、PTAを開いてこちらが説得したのは「沖縄の人たちはふつうに暮している、それなの に危険だといって避けるのは差別につながる」。生徒も親も異論をはさむ人はいなかった。もちろん無事にいっぱいの収穫を手にして帰ってきた。
 「そこに人が住んでいるのなら」これは自然体の発想だった。
(12月5日)

【往還集122】30「朝刊・続」

 とにかく寝よう。明日からのために、少しでも体力を確保しよう。
眠剤を飲む。
 こういうときに限って効かない。明け方になって、やっとうつらうつらしはじめたころ、バイクの音が。
 エッ、新聞?大災害に巻き込まれているのは新聞社も例外でないから、とても刊行できるとは思っていない。だのに、いつもの時間に新聞は配達された。我が家 では「河北新報」と「朝日新聞」を購読している。届いたのは「河北新報」だけだが、そのとき「この世に捨てられていなかった!」という、えもいわれぬ安堵 感を覚えた。
この地区の配達員は、中西さんという。近所の人で、顔も見知っている。彼はただ配るだけではない。見慣れない怪しい車をチェックしてくれる。大雪のときはポストの周辺の除雪までしてくれる。その中西さんがいつも通り、配達してくれた。
 同じような配達員が、各地に何人もいたということをこの本で知った。
(12月4日)

【往還集122】29「朝刊」

 『河北新報のいちばん長い日』(文藝春秋)を読みはじめて、涙が湧くのを止めることができない。かたわらにロールペーパーを置いて、何回も引きちぎる。涙を拭っては、頁を開く。
第1章は、震災の翌日、朝刊を出すまでの奮戦ぶりだ。自分もあの夜から朝にかけてのことを、よく覚えている。ライフラインが断裂し、あらゆるものを着込ん で蒲団にもぐりこんだ。それでも体は冷凍肉のような冷たさ。ラジオは、三陸の惨状を伝える。各地の被害状況を告げながらアナウンサーが、「なんということ が起きたのか」と絶句し、声をつまらせる。いまのこの瞬間にも、泥をかきわけて救助を求めている人がいっぱいいる。折りも折り、非情の雪だ。
 けれど、自分になにができる?無力感に苛まれる。いま、この時点で、こちらにできる唯一の社会貢献は、病に倒れないこと、人の手をわずらわせないことだけだった。
(2011年12月4日)