【往還集124】22 箴言性について

「俳句の集い」へ。「震災詠を考える~被災圏からの発信」のパート2だ。高野ムツオ氏が中心となり「小熊座」が主催した。
仙台文学館の会場は時間まえからいっぱいで、ただならぬ熱気だ。あの日からどんどん時間がたつというのに、人間のほうは少しも終息していない。それがこういう場を設けると噴出する。
私は短歌と俳句の特性を改めて考えた。短歌は抒情の「情」の分、〈事〉を目前にすると迫真性が出る。その点が俳句では希薄。だが箴言性を獲得したときの句に、短歌は太刀打ちできない。「情」を媒体とせずに、魂にまっすぐ向かってくるからだ。
その例を釜石在住の俳人照井翠(みどり)さんの句からあげておきたい。

喪へばうしなふほどに降る雪よ
春光の揺らぎにも君風にも君
桜貝海のことばはあの日棄つ
幾万の柩のための雪螢
迷ひなく来る綿虫は君なのか
なんて貌してゐるんだよ寒卵
         (2012年6月30日)

【往還集124】21 ウグイス

家の隣りは空地になっていて、ススキで埋めつくされる。
梅雨に入るころからウグイスが鳴きはじめる。朝、昼、夕とかけて「ホーホケキョ」をくり返す。どうやら空地に巣があるらしい。ウグイスは小さくて地味な色をしている。そのくせ声は透き通り、かなり遠くへまで伝わる。
鳴き声はふつう「ホーホケキョ」と表記するがよくよく耳を傾けるとそんなものではない。

「ホーホチキョ、キョキョキョ」
「ホーホィチョ、キトキトキト」

などなど。
このウグイス語を人間語に訳すと、

「ホー、でべそ」
「ホー、だめじゃ」

となっていく。
私ははじめのころ、ウグイスを飼わずとも飼っているようなものだと悦に入っていた。ところが庭木や電線に止まって逃げも隠れもしないさまに、「もしかして、このウグイス、人間を飼っているつもりではないか」と思えてきた。
こちらも、飼われているような、改まった気分になってきたのは不思議。
(2012年6月29日)

【往還集124】20 頑固さと脆弱さ

「短歌研究」には「うたう☆クラブ」という欄がある。ネットで5首応募、それからコーチがえらんで双方やりとりし、作品をしあげていく。すべて横書き。結社とは全く異種の、こういう場から生まれてくるのはなにかーーに私は興味をもってきた。
10年を迎えた今月号でコーチの穂村弘、加藤治郎、小島ゆかり、栗木京子が座談している。
なぜコーチ制をとるのか。「添削はやはり文語とセット」「口語でつくる人の多くは、自分の生な感情を自己表現として歌っているという認識でみんな作るから、それを直されると「でも、自分はこう感じてないし」みたいに思ってしまう。」これは穂村の指摘。
なるほど、添削でなくコーチでなければならないわけだ。
ここには短歌領域を超えた問題があると、私は直感した。自分の感じていないことには承服しない、できないという感覚。頑固さと脆弱さを表裏にしたこの新しい感覚。
(2012年6月27日)

【往還集124】19 目線の低さ・続

『遠く離れて』から、スペースのあるかぎり秀歌を引用する、解説はぬきにして。

生きている者のおごりは世の常の離反のごとく病む人を見る
仕事にもいろいろありて延々と交合をするこの持久力
しげしげと赤子の顔を見つめたり見らるることをまだ知らぬ顔
みづからの器に生きるほかなきを沁みて思うもひとごとならず
かく青き空を見あげて身に迫る何ひとつだに知らぬ吾なり
あんた誰と見あげし顔を忘れめや朝の厨のほの暗きなか
静かだね 母つぶやけば 静かなり 恵みのごときこの世の時間
後ろ手に歩めばこの世の顛末を見抜いたような顔つきとなる
(2012年6月26日)

【往還集124】18 目線の低さ

大島史洋『遠く離れて』(ながらみ書房)には、2005年から08年までの作品が収録されている。この間大島は定年退職、近藤芳美を葬送し、故郷の岐阜県中津川へ行き来したはてに母を失っている。
それらの体験が歌集の主調音になっていて、感銘を覚える歌も少なくない。
が、私がいま指摘したいのは大島の目線の低さだ。

おのずから定まる位置は初めよりかくあるべしと知りいしに似る

どういう場面における歌か、前後から推し測ろうとしてもわからない。だからこちらで勝手に範囲を広げて想像するほかない。ここでは大島自身の生き様とみておく。自分が手にしたほどほどの位置、それははじめから「かくあるべし」と決まっていたかのようーー。  ここには大言壮語のかけらもない。ベターッとした、最も低い位置からの視線があるばかりだ。
これが逆に大島短歌の魅力になってきたと、私には思われる。
(2012年6月26日)

【往還集124】17 「はて知らずの期」・続

「はて知らずの記」・続 野川橋のすぐ近くの渓谷。清流と断層もあらわな崖。
「はて知らずの記」・続 作並温泉へ行く途中の切り立った鎌倉山。通称ゴリラ岩ともいう。

正岡子規は仙台の南山閣に8月3日、4日と泊まり、5日には出羽(現、山形)へと向かう。
その途中、愛子(あやし)を通る。いま、私が住んでいる仙台郊外。

広瀬川に沿ふて遡る。嶄巌激湍(ざんがんげきたん)涼気衣に満つ。橋を渡りて愛子の村を行く。路傍の瞿麥(くばく)雅趣めづべし。野川橋を渡りてやうやうに山路深く入れば峰巒(ほうらん)形奇にして雲霧のけしき亦たゞならず。

さすがに難解語が多いので、口語訳してみる。「広瀬川に沿ってさかのぼる。切立つ巌、激しい早瀬で、涼気が衣にいっぱいになる。橋を渡って愛子の村を行く。道端のナデシコの風雅な趣は愛らしい。野川橋を渡ってようやく山路深くへ入れば、山の峰は奇怪、雲霧が加わってさらにただならぬ形状だ。」
このとき子規がみた風物は、現在もかなりのこっている。それらを梅雨の晴れ間に車で行って、撮影してきた。観光地になっていないので、切立つ巌も早瀬も、原形を保っている。
(2012年6月24日)

【往還集124】16 「はて知らずの記」

「はて知らずの記」・続 野川橋。熊が根橋のできていないときは、渓谷まで降りてこの橋を通った。斎藤茂吉も東京の斎藤家にいくときには、ここを通り、仙台駅から上京した。

正岡子規は『奥の細道』を意識しながら、明治26年7月から8月にかけてみちのくを旅した。病後のまだ不安定な時期で、しばしば難儀する。それでも上野–白河–郡山–福島–仙台–松島–楯岡–酒田–秋田–水沢のルートをたどった。それが「はて知らずの記」だ。
今日再読してみて、文語体のすばらしさにいつになく魅了された。
現在は短歌ですら口語体が主流になりつつある。漢文も文語も過去の産物だ。今後、貴重な、大きな文化財だったと気づくときが来るだろうか。気づいたとしても、もうとりかえしがつかない。
子規の文を、最上川のところから書き写してみる。

川幾曲舟幾転水緩なる時は舟徐ろに動きて油の上を滑るが如く瀬急なる処は波浪高く撃ち盤渦廻り流れて両岸の光景応接に暇あらず。

こういう文を自在に綴ることのできる時代があった。
以来100余年。
だのに、この瑞々しい名文よ。
(2012年6月23日)

【往還集124】15 第15回ことばの祭典

「第15回ことばの祭典」前列右が、短歌ゲスト選者の小島なおさん。

昨日は仙台文学館恒例のことばの祭典。短歌、俳句、川柳が同じ題で即詠(吟)する催し。
レギュラー選者は高野ムツオ氏、雫石隆子氏と自分。それにゲスト選者を毎年お招きする。短歌のゲストはいきなりの若手で、小島なおさん、26歳。
今年は3枚の写真を展示しての印象吟。例年とかわらぬ多数の人々が参集し、新課題にとまどいながらも熱心にとりくむ。
やがて選考の段階になる。まず全体から各人が10首選び、両方を照らし合わせる。
するとふたりの重なるのはひとつもなかった。15回やってきてこんなことははじめて。しかもなおさんの選んだのはなかなかいい作品だ。どうして自分は読み落としたのだろう。たとえば、

深呼吸せよと言う声紫陽花のほとりにあわくひらくおもかげ

自分は内心ショックをうけていた。こちらの感覚に錆が生じてしまったにちがいないと。引き際をそろそろ用意しなければと。
(2012年6月17日)

【往還集124】14 書きのこさねば

「このことを書きのこさねばならない、と、私は心に呟いた。」は、原民喜「夏の花」の一句。
震災に直面し、辛うじて生者側にのこされた表現者はまず「書きのこさねば」と思った。歌をやる人は「詠いのこさねば」と思った。佐藤成晃「地津震波」。佐藤氏は1937年生まれの「音」のベテラン歌人。女川の自宅で津波に遭い、波に足をとられそうになりながらも危機一髪で助かる。その体験をもとに、私家版としてまとめた。

「走れよと妻の背中を突き出してつんのめつた手で津波を掴む」
「生き死にを訊ねて歩く町角に相抱くありともしきまでに」
「五秒差に生かされて雑居の中に覚むどの神仏か我を救ひし」
「過去持たぬ一人の我を証明する紙一枚をおし頂きぬ」
「グールルにさらされてゐる家跡にコスモス二合の種撒き帰る」

なまなましく遭遇した体験の底の底から噴出することば、そして歌。その迫力のまえに立ち尽さざるをえない。
(2012年6月6日)

【往還集124】13 誤植は出版の華

「路上」に連載してきた「宮柊二」が、この5年間で550枚ほどになった。『山西省』論をやりたくてはじめたのに、序論段階だけでこの始末。いつ終わるか見通しが立たなくなった。とりあえず「柊二初期および『群鶏』論」としてまとめることにした。出版の依頼先は、宮柊二に最も詳しい柊書房さん。
その著者校を今日終了する。引用文がいっぱいあるので、全てを原典と2度照合。「路上」連載のときも2度、原稿として送るときも2度、今回もまた2度した。
それでも誤植が見つかる。さすがに回ごとに少なくなるとはいうものの、完璧の域には達しない。一字見つけるたびに、がっくりする。
もっとも、こういう体験は今回にかぎらない、出版するたびに味わってきた。他の人も同じらしく、なかには「誤植は出版の華」と豪語する人もいる。
それはそうだが、なぜ完璧から見放され続けるのか、不思議でしかたがないのだ。
(2012年6月5日)