【往還集122】18「広大な空虚」

 あの日から8か月たとうとしている。外見はかなり落ち着いてきたとはいうものの、いまでも津波の映像を目にするだけで胸が引き裂かれる。海をまえにすると、膝を屈してしばし立ちえない。
 いったいあの日に何をみたのか、その後を生きるとはどういうことかーー。
この問いは消えようとしない。
 神山睦美『大審問官の政治学』(響文社)を読みはじめる。彼は自主講座の終了した7月2日、仙台へ。荒浜地区、閖上漁港を周る。被災の想像を絶する広がりに「それまで持っていた大津波についての情報をすべて打ち砕かれたかのような衝撃を受け」る。
仙台行の直前まで3年間続けてきた講義、あれは何だったのかと問う。そして「ある確信」が生まれる。
 「私の講義は、私たちの存在が、いつかあの広大な空虚そのものとなっていくことにあらが抗うために行われてきたのだ」。
 これは講義だけでなく〈その後の生〉も指していると思った。
(10月31日)

【往還集122】17「コーヒーと柿の葉ずし」

 ここからは『水馬』に記されていない。
霊屋橋を渡り、瑞鳳殿入口まで来る。古風で小さな店が目に入る。「萬葉 柿の葉ずし」。6個入りを買い、広瀬川を渡る。評定河原(ひょうじょうがわら)野球場では、若者のチームが練習の最中だ。缶コーヒーも買い、バックネット裏のスタンドに腰をおろしす。早めの昼食だ。塩サバの酢めしとコーヒーとは変な取り合わせだが、思いのほかの美味。
 目を上げると、瑞鳳殿を包み込む大きく厚い杉山が迫る。
ここに来ると個人的な感慨がいつでも甦る。東京の茂叔父。彼には幼い日以来、何かにつけてお世話になった。仙台に来たときは家に泊まってくれた。
 そのとき瑞鳳殿を案内したが、急坂を十歩登ってはあえぎ、何度も小休止しては笑ってみせた。戦後の苦しい時代、肺を病んで片肺状態になっていたのだ。
 亡くなってから随分時間は過ぎた。自分にとって最も近しい親族の、最初の野辺送りだった。
(10月28日)

【往還集122】16「みちの奥の、ひとばめん」

「霊屋下」という名の停留所で下車して 広瀬川にかかる橋を渡る
提の細い褐色の道を歩いてゆくと左側に運動場があって ひときわ高い真黄の葉をつけた銀杏の木が高天に聳え立っている
その下の階段を旋回するように上ってゆく 瑞鳳寺の小暗い杜を横目にる
ちょうど、登りきった肩のあたりが、むかし 魯迅が下宿していたあたりだという

 田村雅之新詩集『水馬』(白地社)に「みちの奥の、ひとばめん」がある。
 半世紀もまえにみちの奥、つまり仙台に降り立った。その記憶を辿る作品だ。
 秋日和の今日、詩集を片手に自分も同じルートを歩いてみた。周遊バスは「青葉通りを左折」「大学正門前を右折」、「霊屋(おたまや)下」の停留所で下車、「広瀬川にかかる橋を渡る、花壇という曲輪の砂岸が見え」と詩はいう。
 橋は当時に比べたら広く立派になった。東方にはビルが城壁のように聳え立ち、天文台も移転した。
 ただし「左脇に運動場」があり、銀杏の木が聳えるのはそのまま。上り階段も魯迅下宿の建物も現存している。とはいえ木造家屋はいまにも崩壊しそうで、一部はビニールシートで覆われている。
 田村氏は「夢の出口にさしかかった不思議な自分を発見する」とうたう。
かくいう自分も、夢の入口から夢の出口へ抜け出たような不可思議さに、しばしとらわれた。
(10月28日)

【往還集122】15「森の手帳・続」

この空間に無数の微粒が浮遊しつづけた。

 今日は家から一番近い森に入った。ここは保安林になって、開発の手からのがれている。人もほとんど入らない。
それをいいことに、自分の庭代わりにしてさまざまな名前をつけた。ヤマユリいっぱいの林道は「ユリの小道」、フキに囲まれた谷水は「フキ清水」、カタクリの群生するところは「カタクリ広場」、タニウツギが咲き並ぶ谷川ぞいは「ウツギ沢」というふうに。
今日も存分に歩き回り、そろそろ帰ろうと後ろを振り向いた。そのとき、日差しが逆光になり、杉木立の黒ずむ空間に、無数の微粒が浮遊しているのをみた。
雪か。
 絶好の秋日和に、まさか。空中を飛ぶ塵のようでもある。 が、上下左右に動きまわっていることからすると、虫にちがいない。日差しがまともに当たると姿は消え、逆光になると万の数がきらきらと浮遊する。
 息を呑むばかりの夢幻の光景。デジカメに収めようとしたが、全く出てこなかった。
(10月27日)

【往還集122】14「森の手帳」

森のなかを流れる沢水

 家の周囲三方は、森に囲まれている。
森と夕焼けと沢水を存分に見たくて、郊外に引っ越してきたのは16年前。時間をみつけては森に入り、歩き回ってきた。小型バッグにクマよけの鈴と「森の手 帳」を入れて。クマよけといっては傲慢だから、「人間しらせ」と呼び換えているが。人間がふえるにつれて動物は奥へ奥へと移っていく。それでもカモシカに は時々遭うから、おどろかさないように鈴を鳴らす。
「森の手帳」は、その折々に気づいたさもないことを、メモするためのもの。いつのまにか4冊目になった。8年前のちょうどいまごろには、こんなメモがあ る。「松の広場。紅葉にはまだ早いが、全山の色が動きはじめている。ススキの白い穂が、戦乱の旗のようになびく。さっきからうしろのほうに、ポッポッと音 がする。わずかの風に木の実が落ちているらしい。虫の音しきり。午後の日差しを総身に浴びる杉山。」
(10月27日)

【往還集122】14「福島はかなり危険・続」

 福島県といっても一様ではない。原発による最危険地帯を〈1〉とするなら、以下危険度に応じて〈2〉〜〈5〉と分かれる。〈5〉は危険度がきわめて低く、 避難先となっている地帯だ。〈2〉以上にも自主的な退避者は多く出ているが、さまざまな条件にはばまれて、現地に残らざるをえない人もいる。その人たちは 必死になって除染作業の最中だ。
これら細部事情を考慮せずに「福島はかなり危険」と発言したとき、どんなに良心的であっても結果的には風評の原因となり、現地の人を傷つける。
始末におえないことに、放射能汚染はかなり広い各地に及んでいる。私自身、震災の日々に生活水として大量の雪を使ったから、内部被曝している可能性はある。
しかし生きのびるためには、避けがたい選択だった。被災現地に生きるということは、風評も差別も、そしてなによりも人体実験中であることも覚悟するということだ。
(10月23日)

【往還集122】13「フクシマはかなり危険」

 もう震災の話題はやめにしようと思いながら、次々に湧いてくるのは我ながら情けない。「福島はかなり危険」という発言だって、はじめは聞き流して終りにしたかった。だのに容易に消えてくれない。
発端は「歌壇」11月号の鼎談「震災後の表現の行方」。川野里子・穂村弘・吉川宏志が参加者。三人は純粋被害者(川野のことば)ではない。このテーマにな ぜ純粋被害の立場にある歌人を入れないのか、企画自体に釈然としないところがある。ただし優れた発言もあるから、鼎談全てを否定するわけではない。
途中で吉川はいきなり「僕はいろいろなデータから判断して、福島はかなり危険だろうと思っているんです」と発言する。「でも、とても言いづらい」と付け加えているが。
この一言で大臣なら、即刻首が飛ぶ。
ちなみに吉川は京都在住。「福島」とはなにを指しているだろうか。福島市か、福島県全体か。
(10月23日)

【往還集122】12「風に乗れ、欅をぬけよ・続」

高等学校文化連盟、短歌分科会の様子。

 午後は短歌・散文・詩・俳句の部門に分かれての分科会。自分の参加した短歌は、あらかじめ応募された作品を6グループ、各6〜7人ずつで相互批評し、最後 に自分が総評するやり方。歌界のシステムに汚染されていない作品が続出するのだから、こちらがたじたじとなる快作ぞろい。一部を紹介しておく。

 先生が嘘をさえずる赤ペンのふわりくせ字を生徒手帳に
空の中沈む高音深淵にそして流れにとどまる誰か
夜陰にて火色に咲かん君の華(せい)目映い君は孤高の一輪
レグルスが無数の闇を照らすため我等の心を光に当てる
疑問形で全て語ってたSVを手に入れVS戦ってみろよ

 もしかしたら、将来の大物が潜んでいるかもしれない。もしかしたら・・・・・・。
(10月22日)

【往還集122】11「風に乗れ、欅をぬけよ」

高等学校文化連盟、短歌分科会で熱心に討議する様子。

きのうは、仙台を会場にして第13回全国高等学校文化連盟北海道・東北文芸大会。
去年はいわきが会場。短歌部門の講師をたのまれた自分は常磐線で駆けつけたが、その半年後に原発事故は発生した。
仙台も大災害に遭い、ホールのほとんどが休館状態。これではとても開催はむりだろうと思っていたら、市民会館の一部がやっと復旧した。そこに300名の高校生が集う。大会のキャッチフレーズが「風に乗れ、欅をぬけよ、杜の詩。」だ。
 午前中は記念鼎談「震災詠について〜ことばに何ができたか〜」。小池光氏、梶原さい子氏と自分が講師。内容については主催側がまとめるだろうから、省 略。印象的だったのは、鼎談が終わって礼の挨拶に壇上に立った女生徒が、自分の震災体験をふくめて20分間も弁舌をぶったことだ。語りたい事、語らずにい られない事が山ほどあったのだろうね。被災者の多くがそうなのだ。
(10月22日)

【往還集122】10「ピッツェリア ヴェジタリアーナ アルベロ」

「アルベロ」 ナチュラルな感じの店内。
「アルベロ」の釜。薪でピザを焼いているところ。

 今日は畑に行って、たっぷりと仕事をした。土を起こし、来春へむけて菜種を蒔く。
その帰り、近くにあるピザ専門店「アルベロ」へ。私が最後に勤務したのは広瀬高校、そこのOG高橋(旧姓佐藤)典子さんが、ご主人とともに2年前に開店し た。釜に火を焚いて焼き上げるという、独特のやり方。中心街からはかなり離れた、ほとんど山里といっていい場所なので、はじめはうまくいくかどうか心配し た。
ところが、なにしろ出来立てのピザがとびっきりうまい。しだいに人のしるところとなり、名所にまでなってきた。
店内に入ると、ナチュラルな感じの木製テーブルがならび、その奥に薪を燃やす釜がみえる。
自分は、若い人たちが創意をこらし、熱心に仕事をしている姿が好きなのだ。そこで他の人にも、「白沢(しらさわ:店の所在地)にセンス抜群のピザ屋さんがある、一食の価値大いにあり」とひそかに宣伝している。
(10月18日)