【往還集121】5「震災詠・続」

 歌誌「熾」はさいたまが発行地だが、気仙沼の会員が何人もいる。その6月号から。 大川はよどみ澱のごとく様を変えあまたの船・車・屋根を沈めいる 小野寺洋子
リユック背負い毛布を提げて避難所へ友尋ねしが名簿にはなし
「屋根にあがれっ!」切羽詰って男が叫ぶ非常梯子で必死に屋根へ 大原都芽子
屋上の片すみにある・・青空・・・トイレ恐くない恥ずかしくない仕方ない
思い出も家屋も人も未来をもねこそぎ飲み込むにっくき津波 後藤善之
水底に瓦礫の下に友眠る冷たかろうに苦しかろうに
圏外の人の歌も、あげておく。
報道に映像に打ちのめされながら粉々になった言葉をさがす 川原ゆう子
当事者でないことの深さは果てしなく朝になれば勤めに行く
(2011年6月8日)

【往還集121】4「震災詠」

 圏内・圏外の境界なしと断言したそばから、逆のことをいってしまうようで、ちょっと都合悪いが、直接的被災者の歌のほうに読ませる力があったのは、否定 できない。「実人生」といってはおもしろくないから、「肉体性」としておくが、「肉体性」と短歌の生理は根の深いところでいまだに交響し合っているらし い。「津波のように」押し寄せた歌のなかから、ほんのわずかを引用してみる。まず仙台を拠点とする「群山」6月号から。会員には、地元の被災者が多くお り、震災詠の多さも群を抜いている。
匂ひなく色なく迫る放射能におそれて生きて十日を経たり 奥山隆
津波の跡に泥にまみれて子の遺体捜す母をり放射能汚染地帯に
ほとばしる水道水を手に受けぬ十七日ぶりなりこの感触は 佐藤淑子 同
日常の緩やかに戻る気配あり春服まとひ地下鉄を待つ
(2011年6月7日)

【往還集121】3「〈まやかし〉か」

 圏内・圏外の境界の溶解と直結するかどうかはわからないが、私が今回の震災で感じた大きなことは、現実 と非現実の境も不分明だということだった。ライフラインが完全に消滅、あちこちの道路、家屋が倒壊、手をのばせば届く距離にある海辺では万の数の人々が亡 くなっている。「これは現実でない、夢だ、フィクションだ」と、何度思ったことか。圏内の人、ほとんどに共通する感覚だといってよい。阪神淡路のときも、 イラク戦争のときも、映像だけで歌を作ることの〈まやかし〉が批判された。今回もテレビ、パソコンの映像で歌作した人は、いっぱいいる。それは〈まやか し〉か。私には、この論議は吹っ飛んでしまったと感じられる。そもそも現実と非現実の区別が成り立たない以上、映像を虚構としておとしめる根拠は、どこに もない。「今回の震災詠は圏内・圏外の境界を取り払って読むことにしよう」と、私はひそかに決めた。
(2011年6月6日)

【往還集121】2「津波のよう」

 3・11を境として、震災詠はどっとあふれた。詩・俳句・川柳の分野も同じだったようだが、短歌はそれらの比ではない。「量たるや、まるで津波のよう だ」とある会で発言したら、あとで「津波のよう」「瓦礫のよう」はマスコミでは禁句になっているといわれた。「これは迂闊」と恥じ入ったが、来る日も来る 日も震災詠の押し寄せるさまは、「津波のよう」としか表現できない。阪神淡路のときも同じ現象が見られたが、今回ははるかに上回っている。その理由の第1 には、なんといっても災害規模の巨大さだ。海岸沿いの町は壊滅的状態になり、死者・行方不明者も2万を越える。第2は福島原発の事故が、圏内のみならず圏 外まで巻き込む事態になったこと。そして第3は、映像機器の普及が格段に進み、生死の境で記録された状況がほとんどリアルタイムで世界を駆け巡ったこと。 圏内・圏内の境界がかなり溶解してしまったことも、今回の特色だ。
(2011年6月5日)

【往還集121】1「死者がいない」

 阪神・淡路大震災は1995年1月17日のこと、死者6000人以上という数に、近代日本でこんなことがあっていいのかと、身が震えた。当時の『短 歌』(1995年4月号)は、早速「緊急特集 阪神大震災を詠む」を特集している。歌人30名による8首+寸感。16年もまえの歌誌を見つけたのは、たま たまでしかない。3.11で書庫の本が総崩れになり、片付け方をやっているときに偶然見つけた。で、作業を中断して読むうちに、あの日に気づきもしなかっ た一点に、ガーンとノックアウトされてしまった。「書き手のなかには死者が一人もいない!」こんなこと、ひどすぎるほどにあたりまえだ。死んでしまえば、 語ることも書くこともできない。したがって書いているのは、すべて生き残った人間だけだ。だのに、この当たり前に、ノックアウトされてしまった自分がい る。なぜ?私は、クラクラする頭をもたげて考えはじめる。
(2011年6月4日)

【往還集121】0「では、出発します」

 1966年1月に創刊した個人編集誌「路上」は、2011年8月刊行の120号をもって、終刊としました。45年間もつづけてきたので、耄碌してみじめな 姿をさらすまえに、自分で葬っておきたかったのです。これ以降は、規模を小さくして個人誌形式で出していきます。冒頭に「往還集」を置いてきましたが、これは継続します。「往還」とは、行ったり来たり、つまり自由自在の意味で、折にふれた所感を綴るものです。121号からは、「路上」に先駆けて「路上通信」のホームページに掲載します。もしかしたら、新しい出会いがあるかもしれないと、楽しみにしながら。1回の量は400字、長めのツイッターって感じで す。できるだけ、毎月更新します。あくまで、できるだけですが。 では、出発します。