【往還集121】15「大川へ 5」

 卒業制作を含め、校舎全体を、3・11のモニュメントとして残したい。とはいえ、遺族からしたら、わが子の命を奪った痕跡を目にするのは、とてもつらい ことだろう。残したいと思うのは、圏外の者の望みだ。遺族が残したいという気持ちになるには、時間がかかる。しかし、その間に瓦礫として処理されてしまう かもしれない。現に何台もの重機とトラックが行き来し、処理に当たっている。いっぱいの子どもたちへ、そして殉職した先生たちへ「しずかに、おやすみくだ さい」と告げて、今日は帰るほかない。濃緑の岸辺、豊かな水、広大な空。美しい風景のなかを再び戻りながら、私は心に何かが芽生えたと感じた。3・11の 日、たまたま生き残る側に区分された自分は、喜びからはほど遠く、堆積する鬱を拭いかねていた。いつまでもそれではいけない、もっと前を向かなければ。大 川を後にしながら、心に兆した芽生えの感触は、それだった。
(2011年7月11日)

【往還集121】14「大川へ 4」

大川小学校 卒業制作「銀河鉄道の夜」。津波に呑まれながらも、作品をとどめていた。

 教室の棚に置かれている時計は、3時37分で止まっている。大地震がきてから、約1時間。この間、どのように対処したのかが当然問われた。殊にわが子を 喪った親たちは、やりきれない思いで問うた。なにしろ校舎のすぐ後ろは杉山だ。ここに逃げ込めばと、誰しもが考える。ただし上へ通じる道はない。それに河 口だとはいえ、海が見えず、情報も十分でない。過去に津波襲来したこともないから、住民ですら危機意識はなかった。学校では生徒を校舎外に避難させ、迎え に来た何人かの保護者には引き渡す。津波が近づいた報に、校舎に近い高台へ移動させはじめ、そこで襲われてしまった。 敷地をめぐるうちに、卒業制作の壁画が目に入る。「平成13年度制作」は、賢治の肖像と銀河鉄道を描いた力作。「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」の詩句の、 「雨」と「風」が破損し、鉄筋さえむき出しになっている。海の力は、あまりにもあまりにも強かった。
(2011年7月11日)

【往還集121】13「大川へ 3」

大川小学校 二階建て校舎が津波に呑み込まれた。
コンクリートの柱も、波の力で薙ぎ倒された。

 しだいに破壊された家屋、腹部をさらした船が見えてくる。その先に校舎が現れる。生徒数108人、死亡68人、行方不明6人、教員数11人、死亡9人、 行方不明1人。7割もが亡くなった大川小学校だ。全体の造りがとてもモダンな、二階建校舎。それが丸ごと波に呑まれ、太い柱も折れ曲がってしまった。校舎 入口には、慰霊の花・千羽鶴・ぬいぐるみがいっぱい供えられている。自分も用意してきた犬のぬいぐるみを供える。それから、教室へ入る。かなり片付けられ てはいるものに、個人の棚には泥にまみれた教科書・運動靴・学用品が残されらまま。持ち主は、もういない。先日訪れた荒浜小学校の破壊ぶりにも息を呑んだ が、多数の子らが助かっている。それに比してここは、ほとんどが帰らぬ人となった。この、あまりにも大きい違いに、胸がしめつけられる。今は、隅々にまで 目をやり、しっかりと記憶に刻んでおくほかにない。
(2011年7月11日)

【往還集121】12「大川へ 2」

 震災後、ちょうど4カ月目。各地で慰霊の催しもある。梅雨も明けた。今日こそ、大川へ。宮城インターから東部道路へ。この道路が防波堤の役割をはたし、 津波はせき止められた。東側にはまだ瓦礫が散在しているのに、西側は緑鮮やかな稲田が広がる。瓦礫は、ずいぶん片付いたとはいうものの、海水をかぶった田 は休耕を余儀なくされ、荒地化している。それにしても、高速道路の渋滞よ。被災者無料になって、料金所では証明書をいちいち点検する。入口も出口も大渋滞 になってしまった。市町村によっては被災審査をいちいちやっている暇がないため、全町民に許可したところもある。で、とんでもない渋滞が日常化した。やっ と河北インター着。ここから北上川沿いの道をひたすら行く。川幅は広く、水も豊か。河川敷には葦が生い茂り、大空もすぐ真上。心が洗われる牧歌的な風景 だ。だのに、ここが一瞬にして惨状の舞台となってしまった。
(2011年7月11日)

【往還集121】11「大川へ 1」

 大川小学校へ行きたい。行ってどうする?霊を慰める?哀悼する?そんなきれいごとは、許されるわけがな い。ただ、行って頭を垂れたい。そうしなければ、震災から前へ踏み出せない。そんな気持ちにかられていた。だのに、なかなか踏ん切りがつかない。その理由 は、物理的にいえば道路も災害地も救援車や工事車で混雑しており、一般車は邪魔になるだけだからだ。第二の理由は、被災圏内にいるものが惨状の地に入り込 むことの〈ルール違反感〉だ。どのような顔をして入ったらいいのか、物見遊山の顔では住人を傷つける。記者・ルポライターの顔になら、なれないことはな い。が、そんな他人行儀はとても居たたまれない。では、どんな顔で?わからない。きれいな理屈は思いつかない。だのに行きたい、行かねばと自分を促すの は、そこに起きたことがあまりにかわいそうで、つらいからだ。現場に立ちたい。そして無力に頭を垂れたい。
(2011年7月11日)

【往還集121】10「荒浜小学校」

 小学校は、海に近い4階建ての建造物だ。この地区では一番高いから、避難場所になり、多くの人が助かった。しかし破壊が凄まじく、もう使えない。校庭に は、バイクや車のスクラップが次々に運び込まれている。校舎を見上げると、鉄製の手すりが2階は完全に曲がり、3階の一部も変形している。廃墟となった校 舎に入ると、廊下はいまだ泥があふれ、職員室も散乱したままだ。波を免れた教室の黒板には、「三月十四日(月)日直(健人)」とある。11日の放課後に、 次の週の14日の分を書いたにちがいない。この日の2時46分に大地震が発生し、1時間後に津波が襲来するなどとは、誰も思っていない。校舎よりも破壊の 凄まじい体育館、壁の大時計は3時55分で停止したままだ。「震災に負けるな!荒浜の子どもたち」「今までありがと!荒浜小・」いっぱい、いっぱいの感謝 の気持ちを記して、子どもたちは荒浜小学校を移って行った。
(2011年7月6日)

【往還集121】9「荒浜へ」

 仙台に引っ越してきて最初の家から、荒浜までは自転車で40分の距離。海を見たくなると、よく自転車を走らせ、飽くことなく水平線を眺めた。3・11、 海のどす黒い舌は、海岸も集落も一気に呑み込んでしまう。被災地帯はしばらく一般車進入禁止になっていたが、やっと解除になる。私は車で海に会いに行く。 すると、密集していた家々はほとんど姿を消し、まるでヒロシマの廃墟のよう。土台だけが残り、人間の住んでいた痕跡を辛うじて示す。砂浜にはどこまでもど こまでも瓦礫が散乱し、津波の凄まじさを物語る。防潮堤には、いくつもの花が供えられている。自分も頭を垂れ、手を合わせる。それにしても、寄せては返す はつなつの波。「あれは、どういうことだったのだ?」と問うてみる。そ知らぬふりをするばかりで、返事はない。海を怒るのでも恨むのでもない。ではある が、やっぱり、無数の死者の分まで、問わずにはいられない。
(2011年7月6日)

【往還集121】8「ブランコにのっていたのは」

 6月26日、仙台文学館で第14回「ことばの祭典」があった。短歌、俳句、川柳部門が集結し、同じ題で 即吟する。3分野の垣根を飛び越えて作りあうという、おもしろい催しなのだ。レギュラー選者は高野ムツオ、雫石隆子各氏と私で、そのほかに毎年招待選者を 依頼する。今回の題は「窓」「動く」。選考が終わって、一堂に会し、いよいよ発表というときに、俳句選者の山西雅子さんが川柳の一句を読んで、涙を流しは じめた。笑うならともあれ、川柳に泣くなんて。
百箇日過ぎてブランコ動き出す
これがその句。百箇日といえば、死者を送り終えてほっとする時期。公園に子どもたちが戻ってきて遊びはじめるーー。しかしもしかしたら、亡くなった子ども が幻となってやってきて、ブランコをこいでいるのかもしれない。川西さんは、後者の解釈をして涙を抑えきれなくなったのだった。
(2011年7月5日)

【往還集121】7「再び、死者がいない」

 短歌総合誌に震災詠があふれ出すのは、3・11から2カ月のちの5月号からだった。それらをつぶさに読みながら、どこにも死者がいないことに再び静かに 衝撃を受けざるをえない。ことばを発したいのは、誰よりも死者であるはずなのに、無念の沈黙が、しかも2万を越える厚い沈黙があるばかりだ。私は震災直 後、酷寒に身を痛めつけられながらも、歌だけは湧いてきた。だが、日を重ねるうちに、死者の沈黙に耐えられるか、代弁者たりえているか、生き残ったのをい いことに饒舌を繰り広げているだけではないかという疑念に突き当たる。鬱は深まり、とうとう失語状態になってしまった。そればかりか、3・11以前の文物 一切が心を素通りし、被災の報に触れるたびに涙を覚えるようになった。いま、目の前にくりひろげられているのは、世界も宇宙も制覇しようとしてきた人類の 奢りの、完膚なきまでの敗北にほかならなかった。
(2011年7月4日)

【往還集121】6「色なき街」

 「波濤」7月号は、第12回民子賞の発表。受賞したのは柿沼寿子「色なき街」30首。私は一読して、今回の震災詠では第一級の力作であると確信した。柿 沼さんは名取市ゆりあげ閖上で被災し、家屋を奪われる。避難所生活の日々、膝の上にダンボールをのせて歌稿を清書したという。
茫然としてゐるうちに暗くなり見知らぬ児童と身を横たふる
屋根の上にながらへて泳ぎ来し人の寒かりしとのみ言へり小声に
悲しくても笑ふ習性このご期に及び行列の人らうす笑ひせり
色なき街 いや色はあり灰のいろ砂のいろ枯死のさうもく草木のいろ
水が欲し 死にし子供の泥の顔を舐めて清むるその母のため
苦手なりし肩組む 抱き合ふ 手を繋ぐ 今はしてゐる生きながらへて
(2011年7月3日)