【往還集123】30 名取川水源

もう4月8日になるというのに、午前中は雪だ。珍しいことに、綿雪。風のない空間をゆっくりゆっくり回転しながら、妖精のように降りてくる。
やがて止み日ざしが遠慮がちに広がる。申し訳程度の春の兆しながらやはりうれしい。 こういうときは湖へ行きたくなる。
そこで、サイカチ沼。
沼を右折してさらに奥へ。「名取川水源」の標識が立つ。水源にはつり橋があって、歩を進めるたびに、木が軋む。
橋の半ばに立ってみおろす。青みがかった水底には、ひと冬の枯葉が堆積している。両岸の木々、空の光と雲が水面に映え、彼方へとつづく。あたかも水彩画のよう。
去年の3・11以降、ここには何度も来ている。そのたびに、時間のことが思われる。なにもかもが、つい昨日のようでありながら、ずいぶん昔のようでもある。どちらが本当なのか、うまく焦点を結ばない。
時間の尺度が、ダリの絵のように解けてしまっている。
(2012年4月8日)

【往還集123】29 「被災圏からの発信」

「被災圏からの発信」対談「新聞歌壇と震災詠」花山多佳子さんと自分
「自由発言」の三原由起子さん。
「自由発言」 佐藤祐禎さん。
「自由発言」加藤英彦さん。

路上発行所主催の「震災詠を考える~被災圏からの発信」を昨日終わった。個人ではとてもやりきれないので、桜井千恵子さん、斉藤梢さんにも助力いただき、仙台文学館にも共催をお願いした。定員100名のところ、申込が200名を越え、会場外まではみ出してしまった。
第I部は「朗読+メッセージ」で直接の被災者名取の斉藤梢さん、閖上の柿沼寿子さん、気仙沼の小野寺洋子さん。
第II部は対談「新聞歌壇と震災詠」で花山多佳子さんと自分。
そして最後の「自由発言」には浪江出身の三原由起子さん、大熊からいわきに避難の佐藤祐禎さん、東京の加藤英彦さん、その他が発言してくれた。
この企画を私は昨年6月に構想した。従来の機会詠とは質量ともにかなりちがうことを目撃していたから。しかしどこの会場も破損がひどくて不可能。一年後にやっと開催できた。
ご協力くださった皆さん、ありがとうございました。
(2012年4月2日)

【往還集123】28 フキノトウ

朝、森の小道を散歩する。ウグイス、キジその他の小鳥の声が日毎にふえる。あちこちにフキノトウも芽を出す。
と、自分より早く散策している男性が。近くに止めてある車は秋田ナンバー。建築ラッシュなので、遠くから働きにくる人も多い。 「こんなにフキノトウがいっぱいあるのに、誰もとらないんですか」と話しかけてくる。「放射能の汚染があるので遠慮しているんです。キノコも山菜もしばらくは休みです」
「そうですか、それは……」
秋田の人は、汚染がごく周辺にも入り込んでいることをはじめて知ったようだ。
3・11以降のドキュメントは、この一年で内化した。だから表面上はどこに行ってもふつうになっている。声高に騒ぎ立てる姿はもうみられない。生きていく以上は生活しなければならない。生活するにはふつうであるほかない。
フキノトウはつぎつぎと芽を出し、ぽこぽこと頭をもたげていく。この、のどかさ。
(2012年3月31日)

【往還集123】27 修業時代

「飢餓陣営」は佐藤幹夫さんの個人編集誌。個人編集とは信じがたいほどの300頁の厚さ、そして濃密な中身だ。
その37号に「聞き書き 編集者=小川哲生」がある。小川氏といえばすぐれた見識の編集者として、多くに信頼されてきた。自分の『日本児童文学の成立・序説』も彼のお世話になった。
今回の発言のなかで印象にのこったのは、すぐれた批評を二十代から書ける人はなかなかいないという指摘だ。それなりの読書量と、読み込んで自分のものにしていく時間・力量が必要だから。二十代のころは自分の雑誌を持ったりして修業時代を送り、三十代になって少しずつ出てくる、だからどうしても十年の歳月は必要とするーー。
さすが見識ある編集者の言。
このごろ修業時代抜きにして、一発で「出世」チャンスをねらう人が多い。一発を当てて、大物になった気分でふるまう若いのがいると、俳句の分野もこぼしていた。
(2012年3月30日)

【往還集123】26 加藤周一

加藤周一『日本文学史序説』は上、下巻の大著だ。1975年刊行。
私はそれをいつか読まんと購入しておいたが、なんとなく読みそびれて今日まできた。この一年、どういうわけか本質的なものに接したい気分になって日々読み進め、やっと上巻を終わった。
日本の政治・文学・宗教・美術その他への博識ぶりには、まず驚嘆する。一個人がここまで跋渉することが可能だとは。
加藤は最初に「日本文化のなかで文学と造形美術の役割は重要である。各時代の日本人は、抽象的な思弁哲学のなかでよりも主として具体的な文学作品のなかで、その思想を表現してきた。」という。
また日本文化の争うべからざる傾向は抽象的・体系的・理性的よりも具体的・非体系的・感情的な人生の特殊な場面に即して、ことばを用いることにあると指摘する。
なるほど。この一言でさまざまな謎が氷解する。定型文学などは、なかでも典型的だ。
(2012年3月29日)

【往還集123】25 世界のミヤギ

私にはフクシマのことが他人事だとは思えない。知人の何人もが被害をこうむったという理由だけではない。
あの日、宮城県の女川原発も一触即発の状態だったからだ。もしメルトダウンが起きたらどうなったかを、私は地図上で何度もシミュレーションしてみた。原発から20キロが緊急避難区域になったとしたら、牡鹿半島、女川町のほぼ全域、石巻市も半分は入る。津波の被害の最も大きい区域だ。大川小学校のある釜谷地区も入る。
30キロに広げれば、東松島市、南三陸町にもかかる。退避命令が出たとして、多数の遺体、多数の負傷者を捨て置いて逃れることができるだろうか。そもそも道路が崩壊し、瓦礫が山とあるというのに、バスはどのようにして出入りできるだろうか。
ほんの半歩の差で、この世ならぬ地獄図が展開されるところだった。そして世界のミヤギになって、後世まで名をのこすところだった。
(2012年3月25日)

【往還集123】24 『明闇』

窪田空穂全集第二巻の『明闇』を読み終わる。1945年2月に刊行されたが、戦災に遭い、戦後に『茜雲』の題で復刊される。かなりの量の戦時詠は除かれて。全集の『明闇』は敗戦前の形。
つくづく不思議というか悲惨と云うか……。窪田らしい日常詠、自然詠が健在なのに、それとほとんど陸続きに戦時詠が量産される。

「夕空の今や暗まむ水浅黄見つつしをれば命愛(かな)しも」
これなど、完成度の高い自然詠だ。ところが、
「血脈の同じ国びと事ありて凝りし力のこの一つ見よ」
のような国粋歌が次々と出てくる。しかも自然詠、日常詠と並び立って。
体の弱い吾子茂二郎応召のときも、
「父われの万歳唱へ送るらく生きよとにあらず生きて勝てよとぞ」
とうたうのがぎりぎりだった。解題の松村英一も「濁りなき純粋な心」で戦時に応じたと語る。
生活者であるとはどういうことか、空穂はこの問いを顧みさせる存在でもあった。
(2012年3月24日)

【往還集123】23 吉本隆明

朝のテレビニュースで吉本隆明氏の死去を知る。午前2時、肺炎、87歳。
宮沢賢治賞を受けていただいたのは2009年のこと。私も賞選考委員をしていて選考の場にいた。吉本級になると賞などいらないだろうから、断られるのではないかと案じた。ところが率直に受けてくれ、表彰式当日も花巻会場まで来てくれた。玄関に出迎えると、視力を失いしかも車椅子。お嬢さんの多子(さわこ)さんの付き添い。
「吉本さん、老いたり!」戦闘的姿を見てきたものには寂しさ限りなし。
が、講演に入るや、あふれんばかりの内容。帰りの時間が迫っているので、こちらでストップせざるをえなかった。
私は学生時代に「エリアンの手記と詩」に出会い、「試行」の読者になり、以来ほとんどを読んできた。「路上」へ激励のハガキをもらったこともある。さすがに『「反核」異論』だけは承服できなかったが。
これで、また一時代が終わる。
(2012年3月16日)

【往還集123】22 東日本大震災仙台市追悼式

3・11一周年の今日、仙台国際センターで行われた追悼式。

昨夕は6時半から、慰霊の花火2万発打ち上げ大会が行われた。場所は泉ヶ岳スキー場。2階の窓からは、はるか遠方ながらほぼ正面に見える。靄にはばまれたのは惜しいが、和紙ににじむように赤や青、黄が広がるのは、格別の趣だった。
そして今日は、あの日から一年目。仙台国際センターで行われる追悼式に参列する。大ホールと3つの中ホールは全て満員。
14時46分を合図に、1分間の黙祷。
これで、一区切りつくことになる。
と、思おうとするそばから「なにも終わっていないではないか」というささやきも聞こえる。
今朝の新聞に、数頁にわたって犠牲者名簿が出た。その余りの多さに圧倒され、5年、10年もかけなければ切りはつけられないという感を新たにしたばかりだ。
だのに、なお生き続けるものはどこかを区切りとして、歩き出すほかにない。この矛盾を抱きながらの一周年となった。
(2012年3月11日)

【往還集123】21 「山」

図書室に掲示されている、まど・みちお作「山」。

閖上中学の図書室は施錠されていた。廊下から窓越しにのぞいたとき、壁に貼り出されている墨書を見つけた。「山」。作者は「まど・みちお」。こんなところにまどさんが生きている!家に帰って調べたら『風景詩集』にある。一連目は次のよう。

旅にでて
ふと気がついて 心なごむのは
空の とおくに
知らない山があって
知っている山のように
生まれたときからのように
こちらを見守っていてくれることだ

この学校にまど詩を好きな先生がいて、掲示してくれたにちがいない。そう思うと無残な津波の痕ながら、ほっと明りがともる気持ちになった。
まどさんはもう百歳を越えた。その人柄はまるで「山」そのものの優しさ、そして羞恥の人。「路上」も随分長く購読してくれた。自分が『詩人・まど・みちお』(北冬舎)を上梓するときも、消え入るばかりに恥ずかしがるので、こちらが恐縮してしまった。
(2012年3月10日)