【往還集121】20「河野裕子『蝉声』

 遺歌集を読むのは、いつでも特別な思いだ。少しずつ読み進めていく。半ばを越え、後半にさしかかる。最後まで行ったら、それ以降は永遠にない。だから、 ゆっくりゆっくり読むが、いつかは終りにくる。おばばになった日の河野裕子を読みたいと思い続けてきたものには、寂しさやるかたない。だが、『蝉声』を閉 じて心に湧いてきたのは、通り一遍の感傷とはちがう、もっと大きなもの、短歌と河野裕子が一体となっている!だった。短歌は定型で、しかも文語を主とする から現代語にとっては間接的な形式だ。だが、河野にあっては、肉体と形式がほとんど分かちがたい域まで来ている。「八月に私は死ぬのか朝夕のわかちもわか ぬ蝉の声降る」「わかちもわかぬ」のは河野と短歌でもある。河野裕子が最後に私たちにのこしてくれたプレゼント、それは「短歌への信頼」だといまにしてい うことができる。
(7月27日)