【往還集121】27「再び、荒浜へ」

荒浜。砂浜の廃材が山と積まれている。

 方言で、盆の終わりを「お帰り(おげえり)」という。そのオゲエリも過ぎてやっと平常になったところで、再び荒浜へ。一か月まえは賑わしかった重機の音 がほとんど絶え、森閑とした空間が広がるばかり。瓦礫の大方が搬出されたためだ。荒浜小学校も四方が柵で囲まれ、立ち入ることはできない。校庭にはバイ ク、車、農機具のスクラップが積まれている。まだ処置されずに残っている家屋はあるが、一家が壊滅したためにちがいない。海岸のゴミも片付けられ、小山に なって彼方まで続く。防潮堤のひとところには花と線香が。私も焼香して、額を垂れる。膝を屈して、しばし立ちえない。こうして津波の痕跡は、消えていく。 3・11以前の、いつもの青海に戻っていく。やがては、死者の面影すら消えていく。復興とは死者を乗り越えること—-とはわかっている。だのに、この胸を 咬む寂寥は、やりきれなさはどうしたことだろうか。
(8月17日)

【往還集121】26「神ヶ根温泉」

雑木林に囲まれた神ヶ根温泉。

 新聞の訃報欄には、今でも震災の物故者が出る。家族四人の名が連記されていることもあって、今更のごとく胸が痛む。震災に関わる記事も途切れないから、 とかく心が沈んでくる。これではいけない、たまには気持ちを洗い流さなければ。そんなときに出かける温泉がある。家から車で十分走れば秋保温泉。温泉街か らさらに三キロ奥まった所に、いちばん鄙びた「神ヶ根温泉」がある。雑木林に囲まれ、こじんまりした木造の二階建。余計なものは、なにもない。湯船も小さ 目。この、気張らない、飾り気のないのがいい。自炊者用の食堂兼休憩室には本棚があって、自由に読書できる。なぜか『ゴルバチョフ回想録』があり、吉本ば なな、村上龍、村上春樹など、まともなのが並ぶ。木洩れ日と梢をわたる風、小鳥とセミと水音。人の気配は最小限。ただし、湯船はひとつだけ。ということ は、混浴になることもある。
(8月16日)

【往還集121】26「吾輩は松である」

 〈吾輩は松である。いやはや、たった一本残ったために、世の憂きごとをたんまりと見なければならぬ。例の京都「五山送り火」に、ケガレがありそうだから と拒まれ、一転してヨシといわれ、新たな松が検査の結果ケガレの判定で、またダメ。やっと成田山新勝寺が引き受けてくれることになった。まずはっきりさせ たいのは、われわれ松には一切関わりがないということ。勝手にケガレを飛ばしておいて、ケガレたからダメというのでは立つ瀬がない。おかげで三陸のあれも これもあやしくなってしまった。格式高い京都のことだから、三陸の中学生・高校生が修学旅行に行く季節になったら、まず検査せよ、少しでもセシウムが検出 されたら立ち入り禁止というのではないか。それもまたよかろう。ほめられず、苦にされっぱなしで、いつも静かに笑っている。それ以外どのようにできよう か。これがトーホクというもの。〉
(8月15日)

【往還集121】25「編むこと・続」

 手編みは、時間がかかる。せっかく編み進めてもまちがいに気づけば、ほどき直さなければならない。機械製品が出回っている時代に、とんでもない非効率的 なことだ。だのに引きつけられるのは、まさに非効率性にこそ理由がある。ただ単純に、来る日も来る日も編みつづけていると、いつの間にか自分が消えてい く。脚本家の筒井ともみに『着る女』(マガジンハウス)というエッセイ集がある。「セーターと毛糸の匂い」で、母親がセーターをほどき、それを毛糸玉に巻 き取っていく思い出が描かれている。そういう単純な手作業が子供のころから大好きだったという。「ひっそりと指先で同じ作業をくり返していると、だんだん 自分というものが消滅していくような感じがして、それが好きだったのかもしれない。」これだ、この感じ!個性を際立たせるのでなく、その逆に自分を消して いく。編むとは、そういうことだった。
(8月12日)

【往還集121】24「編むこと」

 母親の世代は、よく編み物をした。敗戦から間もない時代は、毛糸も貴重品だ。子供が大きくなると、全部ほどいて、体に合わせて編み直す。くせ毛になる と、蒸気や湯で伸ばし、別の色に染めたりする。それを二本の竹棒で編んでいく。母は特に編み物が好きで、暇を見つけては手や指を巧みに動かしていた。傍ら で見ていると、いつの間にかセーターになっていく。興味を覚えた自分も、見よう見まねでやりはじめる。それは、小学二年のとき。以後、長いブランクを経 て、ちょっとしたきっかけで編み棒を持った。すると、長い間眠っていた才が、俄然目ざめてしまった。編み物の本には、すでに設計図が折り込まれている。一 回目はそれにならって編んだが、二回目からはオリジナルの設計図にする。デザインを描き、一目ずつ方眼紙に記入する。図ができれば、あとはそれに従って、 毛糸を繰っていくだけだ。
(8月11日)

【往還集121】23「鎮魂の松23「鎮魂の松」

 高田松原の被災松を、京都の五山送り火の大文字で燃やそうという計画が中止になった。その理由がふるっている、放射能が心配、琵琶湖が汚染される—-。 思わず、笑ってしまう。中止が報道されると、多数の批判が寄せられ、一転して16日の送り火で燃やすことが決まった。このドタバタ劇。被災地と直接関係し ない人間が、いかに風評に弱いかを、またまた見せつけてくれた。一連の経緯のなかで、私が感じたことの第一。圏内のものとして不愉快なことではあるが、こ の程度でまいっていては被災から立ち直れない。第二、送り火にすることを発想した人のアイディアが色あせることはない。こういうアイディアを寄ってたかっ てつぶす傾向は、今昔を問わずにある。第三は、とかく人は風評に弱い。京都のことは笑ってすませられる。許しがたいのは仙台圏の学校が、次々と会津旅行を 中止したこと。なんと愚かな!
(8月10日)

【往還集121】22「雑草」

 猛暑が一段落し、低温と雨がつづく。また猛暑がぶりかえしてくる。この間、まわりの雑草はどんどん伸びて、人間界をおびやかしはじめる。また除草しなけ ればと、外を眺めやっていたときのこと。カヤクサがスンスン丈を伸ばし、細長の葉を左右にひろげ、尖端に若い穂を出ている。そのあまりに均整のとれたすが たに、つくづくと見とれてしまった。威厳さえある。カヤクサだけではない、ヒエクサもヨモギもツユクサ、クズにいたるまで、すがたかたちはちがうものの、 それぞれに美しい。地球が誕生して以来、生命が生まれ、長い時間をかけて変化し、磨きをかけて現在のすがたに到達した。だのに〈雑草〉とひとからげにし て、引っこ抜くことばかり考えていたとは。これは、どんな生産性もない感傷であり、語るもヤボである。そんなことは、とうの昔にわかりきっている。わかい きっているけど、美しいものは美しい。
(8月7日)

【往還集121】22「紙媒体、電子媒体」

 自分もまた、紙媒体から電子媒体への急変に翻弄されているひとりだ。翻弄されながらも、電子媒体に拒否感はない。個人で作品もエッセイもタダで発信でき るとなれば、自らが作家であり編集長でもある。それは「路上」が長年やってきた方向と、本質的に変わりない。個人でやるから批評が不在になる、自己満足に 終わるという問題も、「路上」自身が負ってきた。要はどちらであれ、時間に耐えうる優れた作品を生み出せるかどうかが、最終勝負だ。その観点に短歌を据え てみれば、紙媒体も捨てたものではない。電子画面に短歌が並ぶと、〈目〉が読み、〈心〉までは届きにくい。読者に届く距離があまりに直接的すぎて、「い い」「だめ」の直感判断に導きやすい。紙媒体の場合は、手にする、開く、紙に触る、活字を読むなどの間接性がある。そのまだるっこさがかえって、心への通 路も用意してくれる。
(8月7日)

【往還集121】21「仙台七夕」

仙台七夕の情景

 今年も仙台七夕は、はじまる。地元にいるものとしては、大群衆に巻き込まれるのを避け、早めに行きたい。とはいえ、10時前に一番町に着いたのに、すで に人の波、波、波。例年にない盛り上がりようは、やはり大震災と関係がある。暗い記憶をこの勢いで跳ね飛ばしたい、それが死者への哀悼にもつながる。この 論理、うまくつながるかどうかはわからないが、そういう気分の人出だ。今年の特徴は、国内外から寄せられた無数のツルや短冊。「がんばって」「まけない で」の幼い字や異国語もある。一つ一つを読むなんて、とてもできない。けれど、万単位の心が集結していると思うと、単なる装飾を越えた力として感じられて くる。それにしても、どこから湧き出たともしれぬこの人出。流れに乗り、顔にかかる吹き流しをかきわけていくほかはない。そのときの、本物の和紙の感触は 極上。触感こそが、七夕の醍醐味です。
(8月6日)