【往還集121】10「荒浜小学校」

 小学校は、海に近い4階建ての建造物だ。この地区では一番高いから、避難場所になり、多くの人が助かった。しかし破壊が凄まじく、もう使えない。校庭に は、バイクや車のスクラップが次々に運び込まれている。校舎を見上げると、鉄製の手すりが2階は完全に曲がり、3階の一部も変形している。廃墟となった校 舎に入ると、廊下はいまだ泥があふれ、職員室も散乱したままだ。波を免れた教室の黒板には、「三月十四日(月)日直(健人)」とある。11日の放課後に、 次の週の14日の分を書いたにちがいない。この日の2時46分に大地震が発生し、1時間後に津波が襲来するなどとは、誰も思っていない。校舎よりも破壊の 凄まじい体育館、壁の大時計は3時55分で停止したままだ。「震災に負けるな!荒浜の子どもたち」「今までありがと!荒浜小・」いっぱい、いっぱいの感謝 の気持ちを記して、子どもたちは荒浜小学校を移って行った。
(2011年7月6日)

【往還集121】9「荒浜へ」

 仙台に引っ越してきて最初の家から、荒浜までは自転車で40分の距離。海を見たくなると、よく自転車を走らせ、飽くことなく水平線を眺めた。3・11、 海のどす黒い舌は、海岸も集落も一気に呑み込んでしまう。被災地帯はしばらく一般車進入禁止になっていたが、やっと解除になる。私は車で海に会いに行く。 すると、密集していた家々はほとんど姿を消し、まるでヒロシマの廃墟のよう。土台だけが残り、人間の住んでいた痕跡を辛うじて示す。砂浜にはどこまでもど こまでも瓦礫が散乱し、津波の凄まじさを物語る。防潮堤には、いくつもの花が供えられている。自分も頭を垂れ、手を合わせる。それにしても、寄せては返す はつなつの波。「あれは、どういうことだったのだ?」と問うてみる。そ知らぬふりをするばかりで、返事はない。海を怒るのでも恨むのでもない。ではある が、やっぱり、無数の死者の分まで、問わずにはいられない。
(2011年7月6日)

【往還集121】8「ブランコにのっていたのは」

 6月26日、仙台文学館で第14回「ことばの祭典」があった。短歌、俳句、川柳部門が集結し、同じ題で 即吟する。3分野の垣根を飛び越えて作りあうという、おもしろい催しなのだ。レギュラー選者は高野ムツオ、雫石隆子各氏と私で、そのほかに毎年招待選者を 依頼する。今回の題は「窓」「動く」。選考が終わって、一堂に会し、いよいよ発表というときに、俳句選者の山西雅子さんが川柳の一句を読んで、涙を流しは じめた。笑うならともあれ、川柳に泣くなんて。
百箇日過ぎてブランコ動き出す
これがその句。百箇日といえば、死者を送り終えてほっとする時期。公園に子どもたちが戻ってきて遊びはじめるーー。しかしもしかしたら、亡くなった子ども が幻となってやってきて、ブランコをこいでいるのかもしれない。川西さんは、後者の解釈をして涙を抑えきれなくなったのだった。
(2011年7月5日)

【往還集121】7「再び、死者がいない」

 短歌総合誌に震災詠があふれ出すのは、3・11から2カ月のちの5月号からだった。それらをつぶさに読みながら、どこにも死者がいないことに再び静かに 衝撃を受けざるをえない。ことばを発したいのは、誰よりも死者であるはずなのに、無念の沈黙が、しかも2万を越える厚い沈黙があるばかりだ。私は震災直 後、酷寒に身を痛めつけられながらも、歌だけは湧いてきた。だが、日を重ねるうちに、死者の沈黙に耐えられるか、代弁者たりえているか、生き残ったのをい いことに饒舌を繰り広げているだけではないかという疑念に突き当たる。鬱は深まり、とうとう失語状態になってしまった。そればかりか、3・11以前の文物 一切が心を素通りし、被災の報に触れるたびに涙を覚えるようになった。いま、目の前にくりひろげられているのは、世界も宇宙も制覇しようとしてきた人類の 奢りの、完膚なきまでの敗北にほかならなかった。
(2011年7月4日)

【往還集121】6「色なき街」

 「波濤」7月号は、第12回民子賞の発表。受賞したのは柿沼寿子「色なき街」30首。私は一読して、今回の震災詠では第一級の力作であると確信した。柿 沼さんは名取市ゆりあげ閖上で被災し、家屋を奪われる。避難所生活の日々、膝の上にダンボールをのせて歌稿を清書したという。
茫然としてゐるうちに暗くなり見知らぬ児童と身を横たふる
屋根の上にながらへて泳ぎ来し人の寒かりしとのみ言へり小声に
悲しくても笑ふ習性このご期に及び行列の人らうす笑ひせり
色なき街 いや色はあり灰のいろ砂のいろ枯死のさうもく草木のいろ
水が欲し 死にし子供の泥の顔を舐めて清むるその母のため
苦手なりし肩組む 抱き合ふ 手を繋ぐ 今はしてゐる生きながらへて
(2011年7月3日)