【往還集125】27 汲み取り

なみの亜子は、西吉野の山間集落に住みついてから10年になる。新歌集『バード・バード』にはその住環境と日々の生活が色濃く反映されている。なかに、

「汲み取り代一万一千円を支払いぬ糞するくせにしないふりすんな」

があって、思わずにじゅうまる◎をつけた。
水洗トイレの都会生活では、便は一気に暗黒へと吸い取られて跡形もなくなる。金銭がいくらかかったかなんて、考えもしない。ところがなみのさんの所は汲み取り方式。糞のしまつのための金銭もまともにかかる。これでは「私は糞のことなんかしりません」と白を切るわけにはいかない。
人間はどんなに隠したって、糞尿をする存在である、そのことを生の根本に据えなければならないーーと、大仰にいっているわけではないが、この歌はそういう根の所在を確認していると思う。
もし糞尿が下賤だとするならば、なによりも人間が下賤だということになる。
(2012年12月9日)

【往還集125】26 許容量

「塔」12月号の「編集後記」に永田和宏は書いている。
「いろいろな仕事を断ってはいるのだが、それでもそろそろ私の許容量をオーバーし始めている。」
それはそうでしょう、睡眠が3~4時間ではねえ。歳を考えてもっとスリムな生活にすべし、そうでなければある日突然ガクンと折れて、取り返しのつかないことになる。
というようなことを家内に茶飲み話にしたら、即座に「ひとのことばかり、いってていいの」と逆襲されてしまった。あれこれの仕事を抱えこんで、ひとつ終われば次へかかってしまう、ぼんやりしている時間がほとんどないと評される自分。やっとぼんやり時間になったと思うと、かたわらの毛糸かごに手がのび、こんどは編み物に熱中してしまう。
これではイケマセン。同年代の人も次々とあの世へ往っているではないか。次は誰の番?
というわけで来年度の目標は、ぼんやり時間を増やすことです。
(2012年12月6日)

【往還集125】25 佐佐木信綱の子どもの歌

『佐佐木信綱歌集』を朝々に読んでいる。信綱は自分の生活(たとえば仕事や家族)の具体をあまり表に出さない。そのためどうしてもとらえどころのない感じがしてしまうが、時々顔を出す子どもの歌は実に生き生きしている。
『豊旗雲』から。

「夜舟こぐ父にそひゐしむつ六歳の児はころりと臥して早寝入りたり」
「をさなきは松山道をめづらしみ拾ひし松かさを手より離たず」

『鶯』から。

「手をとればふたあし二足三足よちよちと歩みそめたり真赤なる靴」

『椎の木』から。

「交番の上にさしおほふ桜さけり子供らは遊ぶおまはりさんと」

『山と水と』から。

「いきいきと目をかがやかし幸綱が高らかに歌ふチューリップのうた」

こういう具合。特に孫をうたうときの純朴このうえない喜びようは、どうだろう。名士として第一線に立ち、それなりの苦悩も避けがたかった信綱にとって、子どもの世界は、すぐ身近にあるこのうえない解放空間だった。
(2012年12月1日)

【往還集125】24 評論を読む・続

「歌壇」の連載評論山田富士郎「評伝 會津八一」、川野里子「空間の短歌史」は毎回読みごたえがある。完結が待たれる。
その他の評論で、「これはいいところを突いている」と思ったのを拾遺してみる。

「新たな想像はゼロからは生まれない。創造には学びが必要である。」(盛田亭子「小沢蘆庵における伝統と革新」「歌壇」12月号)

「自分自身の心はみずからも知り得ていない深く豊かな混沌の沼であり、容易には表現できないものであろう。」(伊藤一彦「「難しさ」が楽しい」『短歌』12月号)

「家族は、家族としてのみ、この世にいるわけではない。たまたま縁のあった他者である。そこから時代や社会を覗ける窓でもある。」(花山多佳子「存在のオーラを」同)

「どんなにささやかな素材でも、天啓にも似た唐突さで人生や〈私〉について教えてくれる。」(島田幸典「一首の背後にあるもの」同)
(2012年12月 1日)

【往還集125】23 評論を読む

2013年1月号から3回、『短歌』の「作品月評」を担当することになった。短歌総合誌4冊を対象にして作品を評するのだが、この際評論類も全部読んでおこうと決めて、今日やっと終わったところだ。
とかく評論は読まれない、出版しても売れない。しかし捨て置くには惜しいのもいっぱいある。それが長い間の気持ちだったので、数年まえに「短歌往来」の編集長に「評論月評」をやらないかと提案した。OKとなって、1年目は自分が担当した。
実際にやってみると、読むだけでかなりの労力だった。が、その分随分収穫も大きい。今回の対象は作品だけだが、自分の勉強のために4誌全ての評論も読むことにした。内容は歌中心だが、歯ごたえのある評論には、必ずジャンルを越えた普遍性がある。そういうのに出会ったときの充実感は、読む疲れを忘れさせる。評論もまた作品にほかならないと、再認識させてくれる。
(2012年12月1日)

【往還集125】22 晩秋

月山池の湖面と紅葉の山々。
花巻、南斜花壇の鹿の像と紅葉の雑木林

今年の紅葉は10日近くはおくれた。それでも気温が下がりはじめると、周辺の広葉樹は変化しはじめ、パッチワークのような文様が広がった。
秋保の天守閣公園へ。渓谷と足湯と炎上するばかりの紅葉。
月山池へ。湖を囲む赤銅色の山々、はるかには蔵王連峰の銀嶺。
そして昨日は花巻へ。市民講座「はなまき賢治セミナー」で「鹿踊りのはじまり」と「水仙月の四日」を話すことになっている。早めに行って南斜花壇へ。花の大方は終っているものの周辺の林は赤、黄、茶の広葉樹で埋め尽くされている。その下に坐って見上げると、わずかの風にも葉洩れがこぼれ落ちてくる。さらに風が加わると何枚もの葉が、まるで空気と睦み合うかのように降下をはじめる。
これだけのこと。毎年くり返されるこれだけのことなのに、どうしてこうも息を呑むばかりに美しいのだろう。
歌を作ろうとしてもできはしない。
(2012年11月18日)

【往還集125】21 遺体200~300

河北新報社編集局編『再び、立ち上がる!』(筑摩書房)は記者たちが被災各地に入り込んで取材した記録集だ。
大震災関係の出版物は随分多く読み、その度に胸のえぐられる思いをしてきた。今回も同じだ。
「「遺体二〇〇~三〇〇人」、錯綜する情報」の章がある。情報の大混乱のなかに発せられ、事実であるかのように数日間流れたという。実際の荒浜地区の犠牲者は約180人。自分はライフラインの完全にストップした夜、布団にくるまり、夜の明けるまでラジオをつけていた。未曽有の大災害だとはわかったが、具体的なイメージがつかめなかった。
夜もふけた頃アナウンサーが「荒浜に遺体200から300」と告げ、いきなり慟哭した。
この数値を聞いた途端、まさにらち埒もないことが起こったのだと実感し全身が硬直した。同時に、この事態をまえに何もできない無力感に、したたかに打ちのめされた。

(2012年11月16日)

【往還集125】20 羊について

香川ヒサ歌集『The Blue』(柊書房)に、
「草原に草食む羊 私に見られなかつたらゐなかつた羊」
「私の見てゐない時羊らは羊そのものとして在るのだらう」
がある。アイルランド滞在から生まれた作品だ。
私はこの歌が総合誌に掲載になったときに読んで、強い印象を受け、再び歌集でお目にかかってやっぱり立ち止まった。
描いているのは羊だが、羊を通して人間やら世界やら歴史やらを語っていると思われるのだ。
文明国が新大陸を発見したという歴史がある。その詳細を語る日本の名著は和辻哲郎『鎖国』だ。あれを読んだとき私は「発見」以前に原住民はちゃんと住んでいたのにと思わずにはいられなかった。「私に見られなかつたらゐなかつた羊」とは文明国の傲慢であって、「羊らは羊そのものとして在る」のだと。
そういうことをこの2首は考えさせてくれる。作者の意図とはずれるかも知れないけれど。
(2012年11月15日)

【往還集125】19 「画文と短歌の二人展」へ

貝原浩のベラルーシの画。
佐藤祐禎作品。

新幹線で福島へ。時雨が去ったばかりで北方には太い虹がかかる。駅近くの市民活動サポートセンターで開催中の画歌展へ。
貝原浩氏はチェルノブイリ原発事故から6年後のベラルーシをたびたび訪れ、そこに生きる人々を描いてきた。大和和紙には大人、子供の飾らない姿が生き生きと描かれている。惜しいことに2005年に病没された。
短歌のほうは佐藤祐禎(ゆうてい)氏。『青白き光』からの抄出だ。この歌集については「往還集123」でもとりあげた。受付でいただいた「『青白き光』を読んでくださる皆様へ」によると、祐禎氏も一号炉建設の頃働いたことがあり、工事の杜撰さや誤魔化しを目撃してきたという。生活基盤全てを奪われた憤り、悲しみ、絶望感。
「しかし、それでも生きなければなりません。幸いに短歌というものがありましたので辛うじて生きることができるのかも知れません。」
この一文をまえにことばが出ない。

(2012年11月8日)

【往還集125】18 てん天こう公に我れを還さん

高校時代の漢文専門の先生は杉山先生という熱血漢。漢詩を朗詠するに目をつぶり、あたかも黄河を眼前にする雰囲気だった。おかげで自分も漢詩好きになり、いまでも時々読む。
目下手元においているのは『中国名詩選』3巻本(岩波文庫)。
おうぼん王梵し志の詩にきて、あまりのことに笑ってしまった。笑う漢詩だってある。
「我れ昔未だ生れざりし時は、めいめい冥冥として知る所無かりき。」とはじまり「なんじ你てん天こう公に我れを還さん、我れに未だ生れざりし時を還せ。」と結ぶ。
編者松枝茂夫の訳文を借りよう。「わたしが昔まだ生まれぬ前(未生以前)は何も知らなかった。しかるに天公は頼みもせぬのにわしを生んだ。わしを生んで一体何をしてくれたか。着るものも無く、わしに寒い思いをさせ、食べるものも無く、わしにひもじい思いをさせただけじゃないか。これ天公よ、このわしをお前さんに返すから、わしを未生の時に返しておくれ。」
(2012年11月5日)