【往還集146】20 台風とラグビー

台風19号は各地に大きな被害をもたらし、やっと福島沖へ抜けたものの、多数の河川は氾濫中、犠牲者数もまだはっきりしていない。
当地も、昼となく夜となく強雨は襲来し、屋根をつんざくのではないかと恐怖させるほどでした。
そういう最中のラグビー・ワールドカップ。釜石会場は中止になったものの、横浜の日本対スコットランドは開催される。
大熱戦の末、日本が勝利。
暴風、洪水、土砂崩れの報には胸を痛める。多くの知人も、どうなったかと心配でならない。
だのにチャンネルを替えた瞬時に別世界は出現し、巨体をぶっつけ合う激戦。
こちらも、のめりこんでいくではありませんか。
あまりの落差をどう処理したらいいのか。
私はかの大震災の渦中での心境を反芻しました。

「遠くから心配してくださるのはありがたい、けれど今あなたが幸福な状態にいるならそれでよい、どうか幸福まで否定しませんように。」
(2019年10月14日)

【往還集146】19 連帯しようね

後期高齢医療にかかわる手続きで、支所に行ってきました。
窓口は福祉課にあります。
係の人に書類を提出。
点検してもらっている間にきょろきょろしたら、衝立1つ隔てて赤ちゃんのいることに気づきました。
ママが児童手当の手続きをしているよう。そのすべすべした肌といい、くりくりした瞳といい、小天使そのもの。
私は、赤ちゃんなら100人ほしいと思っているほどの赤ちゃん好き。
先日も町内芋煮会の折に近所の赤ちゃんを抱っこさせてもらいました。ふにゃふにゃもにゃもにゃした感触は天下一品!
今日も衝立越しながら「何カ月ですか」と尋ねると、ママが「10カ月です」と代弁してくる。
そのとき私は気づきました、赤ちゃんも高齢者も福祉を受けることでは同じ身、だから窓口も隣になっているのだと。

「それならおたがいに連帯しようね」

とエールを送ったら、赤ちゃんは顔いっぱいの微笑で応えてくれたのです。
(2019年10月7日)

【往還集146】18 胎児・続

これまでは結婚して子どもを産んでも、夫と妻はそれぞれに単独の存在だと思われてきました。
ところが増﨑氏によると

「胎児のDNAの半分はお父さんのものだから、お父さんのDNAが胎児を介してお母さんにいっちゃってる」

というのです。
ということは子どもを産んだあと憎しみ合って離婚しても、あるいははじめからシングルマザーになったとしても、もはやDNAに関しては単独ではないのです。
「エッ」と、目を開かされるではありませんか。
もう1点あげておきます。それは病気について。

「病気になることは必ずしも悪いことじゃない」
「病気になっても、それによって何か新しい自分に気がついたら、それはそれでプラス」「なんらかの異常をもつ子どもを産んだお母さんも、それがきっかけで変わるんですよ。親と子も一期一会。」

こういうことばに出会っただけでも幸せな気分になれる、私からもお勧めの本です。
(2019年10月6日)

【往還集146】17 胎児

「往還集5 産むこと」で、いがらしみきお氏の推薦する『胎児のはなし』にふれました。
その後とりよせて読みました。
それはそれは興味深い本でした。長崎医大産婦人科名誉教授増﨑英明氏に文筆家の最相葉月氏がインタビューする形式で話は進んでいきます。
受精して胎児を孕み、妊娠期を送る、いよいよ出産。生れたとたん貧富の差を越えて、どこの家も大喜びする。妻の母親つまり義母は助産婦でしたから、こういう体験談をよく話してくれました。
以来、医学はどんどん進歩し、人工授精も珍しくない時代になりました。
胎児の段階からの診断も可能になり、病気が見つかると早くも治療できる。
そういう最前線に増﨑氏は身を置いてきたわけです。したがって興味津々の問題は山のように出てきました。
ここでは2点だけとりあげます。
1つは、「お父さんとお母さんはDNAでつながっている」という驚くべきこと。
(2019年10月6日)

【往還集146】16 賢治の姿

古川女子高校に勤務していた5年間、小牛田駅近くにアパートを見つけてそこから通勤しました。
短い期間でしたが、自分にとっては新婚の地、長男出生の地、さらに同僚や生徒との交流も濃密な、忘れがたい町です。
宮沢賢治研究も、この地で本格的にはじめました。
小牛田にはかつて財団法人斎藤報恩館がありました。東北砕石工場技師となった賢治はここに何度か足を運んでいます。
当時の館長が盛岡高農の先輩だったので、宣伝を兼ねての訪問です。
徒歩なら駅から40分ほどの行程。
私も何度か歩いてみました。
そうしているうちに賢治の姿に出会う気さえしてきました。
児童出版社から賢治伝の依頼が来たときも、その時代を詳しく描写しました。
しかし偉人とは程遠いみじめな時代。出版社の意図とは大きくかけ離れていたのでしょう、200枚ほどの原稿は没に。
以後どこに閉まったものか、今も見つかりません。
(2019年9月20日)

【往還集146】15 「ミニコミ誌 こごた河北」

NPO法人「小牛田(こごた)セミナー
という分厚い「こごた河北」をいただきました。
10人のグループが2003年から2019年に渡り隔月で発行、「河北新報」定期購読者を中心に無料配布。終刊を期に1冊にまとめたというのです。
地方誌自体は、よくある。「こごた河北」もその1例ですが、開きはじめたら地域の問題のみならず世界動向にも目を配る、かなり濃密な内容です。
「小牛田風土記」が連載されている一方、「中国の現在」もある、前川喜平氏講演会の記録さえ掲載されている。
つまり1地域に足場を組みながら世界をも視野に入れている。それぞれの文章力も並ではない。
これだけのミニコミ誌が成立したのは小牛田(現美里町)だからこそ。東北本線の駅「小牛田」は東西へ走る支線の始発駅、鉄道の町です。旧国鉄時代に育まれた気風(自由ながら芯もある)が今も文化風土として生きている町なのです。
(2019年9月19日)

【往還集146】15 呼名

在日についての問題を、なぜ連続して取り上げてきたか。
それは近年の日韓関係がひどくつらい状態になっているからです。
私は在日の生徒たちに何人も出会ってきました。優れた子たちはいっぱいいました。
氏名は日本名にしているので普段は国籍も両親の出自もわからない。しかし面談してみるとそれぞれに固有の問題を抱えていました。
せめて堂々と本名を名乗り、周辺も自然に受け止めるようになってほしいと願ってきました。
1996年といえば私が最後の学校宮城広瀬高校に赴任した年です。
入学式がはじまり、新入生の呼名がはじまりました。全部で7クラス。
女性の担任がいきなり、しかしごく自然に

「ヤン・ミジョン」

と呼びあげ、当の生徒がすくっと立ちました
やっと自分の本名を堂々と公の場でいえる時
代がきた!
それは秘かな感銘でした。
今も「ヤン・ミジョン」の澄んだ声が、耳の奥に生きています。
(2019年9月12日)

【往還集146】13 交流

仙台の高校に転勤し、数年後に生徒指導部に所属しました。
事件・事故には数多く対面することになりましたが、意外だったのは戦前・戦後などと無縁のはずの生徒たちに、在日の人への蔑視があることでした。
仙台には朝鮮学校があります。両校のツッパリグループはたびた衝突し、補導されていました。
「なにがそんなに憎いのだ」と当の生徒に聞くと、「なんだか知らないけれど、なんとなく」と応えるのみ。
もっとも教師のほうも相手校の実態がわからない。
私は生徒部全員で朝鮮学校の訪問を提案し、実現することができました。
学校は八木山の雑木林のなかにあります。校舎見学、授業参観、先生たちとの座談。
この教師同士の交流が生徒間にも伝わったのでしょう、こちらが不思議に思うほどに衝突は消えていきました。
そればかりか朝鮮学校のサッカー部を招待し、放課後の校庭で交流試合をすることもできました。
(2019年9月12日)

【往還集146】12 石つぶて

裏通りには北から南へと流れる用水路があり、歩道も連なっている。そこが自分たちの通学路で、車道は一段下がったところにある。
先頭を行く同級生が、怪しげな風体の男を見つける。黒牛を引いている。
「チョーセンだ」と耳打ちする。
2人目も「チョーセンだ」と応じる。
誰が先ともなく石つぶてを拾って「チョーセン、チョーセンベーゴ」と囃し立てて投げる。
自分も、つぶては拾わなかったものの一緒に叫んで走る。
頭部を腕でかばおうとするその人、暴れる牛をなだめようとするその人。
〈事〉としてはそれだけなのですが、以来、今に至るまでこの日の事を反芻しつづけてきました。
愛犬を殺したのがその人という確証があるわけではない、だのにチョーセンが犯人だと決めつけた、背景には大人社会の差別意識があり、子どもにも伝播していた、だからといって差別する側に属していた自分を許すわけにはいかないーと。
(2019年9月12日)

【往還集146】11 学校帰りのこと

それは小学5年生のときのことでした。
教室に入るなりOさんが泣いて訴えるのです。うちの犬がいなくなったので探したら、チョーセンの家の壁に皮になって干されていた、父ちゃんとワケを聞きに行ったら、鉄道の脇に死んでいたので皮にしたといい張る、あれは絶対ウソだ、つかまえて殺したんだーー。
Oさんと散歩中のその犬を見たことがあります。毛のふさふさした名犬でした。
当時町はずれに、廃品業を営む家があり、粗末な服装で、髭もぼうぼうの朝鮮人が住んでいました。
その異様な風体を不気味がって、子どもたちはチョーセンと陰口し合っていたのです。Oさんが泣きながら愛犬のことを語ったとき、チョーセンへの怖れと憎しみが湧いたのにはそういう下地がありました。
それから数日たった下校時のこと、黒牛を引きながら町の裏通りを行く男を見かけたのです。
こちらはランドセルを背にした同級生4人。
(2019年9月12日)