前沢(現奥州市)は南から北へと細長い町並。そのの背後は低い山つづきで、登りきると一面に台地が広がっていました。戦後になって引き揚げ者が続出し、幾棟もの長屋が台地の一角に造成されました。転入してくる同級生もいます。多くが極度の貧困、弁当を持参することもできません。おひる時間には教科書で顔を隠しているか、校庭で遊んでいるかでした。ある日体育から教室に戻ってきた一人が「あれ、弁当がからだ」と叫びました。以来、たびたび弁当事件は起きましたが、とうとう犯人が見つかります。同じクラスのSさん。前々からさまざまな物がなくなるので、噂は立っていましたが、弁当は現行犯。当時私たちは登校時間の早さを競いあっていました。その日は自分が一番、と思ったらすでにSさんが。Sさんは野の花を廊下の竹筒に活けてまわっていました。いつも季節の花の飾られているわけがわかりました。
(2018年1月3日)
カテゴリー: 往還集140
【往還集140】38 人類の発展・続
こうなると原発工事はおいそれとできなくなる。それでは儲けないので、国のトップが海外へセールスに出かける。原発のみならず核兵器はあちこちにあり、所有した国は廃絶へ向かおうとはしない。このような状況を目の当たりにすればいやでも「やがて人類は亡びる
と悲観せざるをえなくなる。ただし地球も亡びるわけでない。人類絶滅のあと、放射能にも耐える生物が出現し、地球史のほんの1頁に「人類史」を書き加えるかもしれない。ところが汚染された地球を脱出すべく、他の星を探したり、人造の星を造るという案もある。仮にそれが可能になったとしても、全人類が移住できるとは思えない。だれが移住するか、抽選するか、政治力・金力によるか、それともノアの方舟同様、神におまかせするか。だがまてよ、そのまえに問うべきは、「人類にはそこまでやる価値があるの?」だと思う。以上、新年の所感です。
(2018年1月1日)
【往還集140】36 身自ら
世間の3・11への関心は、時間とともにどんどん衰退しています。7年もたつのだからそれはそれでよい、どんな事もいつかは忘れ去られていく。ただし、たまたま当事者だった人たちが、わが身のこととして反芻し、なにが問題だったのかを自問する時間はのこりつづけます。私でいえば、2010年にPAS検査を受けており、異常なし。それが3・11をはさんで急上昇。もちろんこれだけで因果関係は立証されませんが、同年代の人たちに会うと相当数が身心に異常を抱えていることがわかります。目下福島県の子どもたちは甲状腺がんの検査を継続している。避難に際しての死亡、疾病も問題になっている。が、3・11の問題はそこだけに留まるわけでない。重い被害を受けなかった人たちにも広く異変は出ている。私自身もそういうなかの一人。であるなら腰を据えて3・11を身自ら生きてみようと思っています。
(2017年12月31日)
【往還集140】35 最後の書かも
今年の3月に歌集『連灯』と、評論集『宮柊二『山西省』論』をほぼ同時刊行しました。『連灯』は「短歌研究」に連載したのを中心にまとめ、3月に出す予定となっていました。『山西省論』も「路上」に連載していたのが完結したので、たまたま同時期に出すことになったのです。ところが私は前立腺がんPSAに引っかかり、1月からホルモン療法に入りました。時を同じくして2つのゲラが届いたので、場合によってはこれが最後の書になるかもと覚悟しながら校正を進めたのです。以来1年になろうとしてPSAの数値は下がり安定しつつありますが、生の時間に限度があることを自覚する機会ともなりました。最近は、もしまだ時間がのこされているなら、宮柊二論3部作として『小紺珠』論をやりたいと思いはじめています。けれど知力、体力がどれだけあるか、それが問題。「どうなんだい?」とわが身に打診中です。
(2017年12月31日)
【往還集140】34 ホントとウソ・続
『君の膵臓をたべたい』!なぜ胃とか心臓でなく膵臓なんだという「?」が渦巻く。タイトルにつられて買う。読みはじめたらやめられなくなった。高校で同じクラスの社交的で人気者の山内桜良、その逆の孤立型でネクラの志賀春樹。ひょんなきっかけから桜良が膵臓病で余命1年であることを知る。それ以来の凹凸のある交際。こういう設定は「愛と死を見つめて」の大ブームを通過したものにとって目新しいことではない。それなのに展開のウソッポさというか、劇画や劇場映画の台本っぽさというか、そういう展開にはまっていくではありませんか。そういえばーーと、私の思いはいきなり飛躍したのです。トランプ大統領のニュースをほとんど毎日見ていますが、もしかして映画「トランプ」を観覧しているのではないか、あの髪、あの目、あの手、あの口。ホントとウソの境界がもう消え失せてしまったのではないか。
(2017年12月31日)
【往還集140】33 ホントとウソ
今日は大晦日。この1年間で特に印象的だったことを話題にします。私は『短歌』1月号から半年間「歌壇時評」を担当することになり、あれこれの本や雑誌を読んでいます。興味深いことがつぎつぎに見つかるのですが「この件は「往還集」でなく「時評」へまわそう」などと考えることもあります。けれど「往還集」と『短歌』の読者層が重なり合うわけではない、仕分けなどしないで書いていいのではないか。で、まず住野よる『君の膵臓をたべたい』(双葉文庫)についてふれます。ふだんはジュニア小説にまったく疎い自分。作者
はもとより文庫部門で年間ベストセラー第1位だとも知らなかった。だのになぜ手にしたかといえば、松村正直歌集の『風のおとうと』を考えていたから。この歌集には食に関わる不可思議な歌が出てくる。それらを読み解くヒントになる本がないかなあと探していた目に、いきなりーー。
(2017年12月31日)
【往還集140】32 国家とは・続
私は日本人の両親のもとに生まれ、国籍も日本人。けれどいきなり国家の一員としての精神また義務を押し付けられはじめると、どうもついていけない。そもそも日本に生まれたのは自分の選択によることではない。それでも日本が好きかどうかと問われれば、これまでは好きと答えることができた。なんといっても憲法九条が誇り。もう戦争をしなくてよい殺されなくてよいと、安堵感を覚えたのです。ところが最近の動向は??だらけ。なりふしかまわず改憲へまっしぐらではありませんか。改憲派の人はよく「敵に攻められたらどうする」と詰め寄る。しかしそもそも敵を作らないのが九条。それでももし攻められたら、一定の防御はする。それでも相手が攻めこむなら、無抵抗を貫き犠牲死もいとわない。それが九条の態度であり、自分もそれを「よし
とするのです。このことを一度はきちんと表明しておきたかった。
(2017年12月19日)
【往還集140】31 国家とは
ヘーゲルの『歴史哲学講義』を読んでいることは、さきにも触れました。今頃になってヘーゲルを読むなんてといわれそうですが(事実私の読書力は昔から弱くてずっとずっと嘆いてきたのですが)、読み進めるにつれてその壮大な構想にはまりこんでいる昨今です。この書はベルリン大学の講義をもとにしたといいます。講義開始が1822年、日本でいえば1823年にシーボルトが長崎に来航、翌年にはイギリス船が来航という時代。だのにヘーゲルの視野は驚くばかりに広い。もっとも、処々に疑問がないわけではない。「歴史における理性とはなにか」の章に語られる国家観もそのひとつ。「国家とは、個人が共同の世界を知り、信じ、意思するかぎりで、自由を所有し享受するような現実の場です。」「人間のもつすべての価値と精神の現実性は、国家をとおしてしかあたえられない」ともある。この信頼に満ちた国家観!
(2017年12月19日)
【往還集140】30 秋から冬へ
今年の紅葉は例年になく美しかった。
機会をとらえてはあちこちに出かけ、存分に堪能しました。
とはいっても特段の名所というわけではない、たとえば仙台文学館裏の台の原森林公園、熊ヶ根の水道記念館庭園、広瀬川や名取川の上流、その他。どこに行っても赤や黄の色は一段と冴えていました。
それもそろそろ終わり。
木々の葉は赤銅(あかがね)色になり、少しの風にも舞い落ちるようになりました。
12月も目前、もう1度近辺の山を歩き晩秋を味わってこようと出かけてきました。
月山池にはもうカモの群が浮かんでいる。雲の切れ目から洩れ出る日の光が、雲の移るにつれて湖面を滑っていく。山道をおおう落葉は、1夜の霜もとけて、さながら厚手の絨毯のよう。釣り人はあちこちの岸辺に腰を下し、無言の時を過ごしている――。
という具合に、「往還集
では何度もサイカチ沼、月山池をとりあげてきましたが、ついついまた。
(2017年11月29日)
【往還集140】29 短律
最初の赴任校若柳高校は木造校舎。図書室は講堂を改造しただけの、薄暗くて陰気な部屋でした。
たまたま手にとった俳句講座の本に西東三鬼を見つけてびっくり仰天。さらに
尾崎放哉「墓のうらに廻る」
橋本夢道「うごけば寒い」
にはノックアウトされました。
俳句のイメージがすっかり覆されたのですから。
こういう句を短律または短律句ということをあとで知りました。
時はいきなり今の今。
西躰かずよしの『窓の海光』(風の花冠文庫)を読む機会を得ました。短律句集です。
「枕もとに置く夜の銃声」
「まぶしい声の背中だけある」
「あしのうら素足で確かめる」
「百合の折れてひかりへあるく」
「冬の旅終わり海へ帰る」
などなど。
短律句は、作者の境涯がわからないとイメージを固めにくい。
それを承知で表現をここに賭ける禁欲性また潔さ。
私はそれをヨシとする。
木造図書室の空気と短律が今でも重なり合います。
(2017年11月28日)