ついでに賢治の一篇について。
あまり目立たないけれど、けっこう好きな短篇に「蛾」がある。
1922年7月、盛岡に毒蛾が襲来した。そのことを素材にした作品。
まず地名が独特。「イーハトブの首都マリア」これは岩手県盛岡のこと。「ハームキャのクワッコ学校」とは、花巻の桑蚕(くわご)学校。当時は養蚕が盛んで、各地に試験場があった。固有名詞をハイカラ語に翻案する腕は、みんごとみごと。
理容師をアーティストすなわち芸術家としているのも、注目に値する。床屋さんといえば、ふつうは庶民の町のオッチャンの商売。けれど賢治は一貫してアーティストと呼び、誇り高き仕事ぶりを具体描写している。
もっともこれは賢治の造語ではない。明治40年に東京本郷で理髪術の講習会があり、修得した人には「アーティスト」の称号が与えられたそうな。私市由枝さんの「「ポラーノの広場」語註」でそのことを知った。
(2015年4月7日)
カテゴリー: 往還集132
【往還集132】36 「新花巻駅に降り立ったときの」
鏑木連(かぶらぎれん)氏の「賢治さんの存在証明」(「イーハトーブ会報」第50号)を読んでいるうちに、なんだかこっぱずかしく(きまりが悪く)なってきた。
鏑木氏は昨年『イーハトーブ探偵賢治の推理手帳 Ⅰ』を刊行した。賢治を名探偵役にした、ユニークなミステリー。
はじめて花巻を訪問したのは25年まえだという。
「新花巻駅に降り立ったときの風の感触は今も頬が覚えています。やっと訪れることが出来たという思いと遠い昔に来たことがあるかのような懐かしさを感じました。」
なかなかいい文章ではないかと思う反面、やはりこっぱずかしい。
岩手生れの自分は、この周辺をくさるほど歩いている。新花巻は、新幹線駅とはいえ、ただの地方駅だ。冬は飛びっきり寒く、夏は飛びっ切り暑い。
けれど憧れをいだく人は、「遠い昔にきたことがある」とまで感触してくれる。
ありがたいやら、こっぱずかしいやら。
(2015年4月4日)
【往還集132】35 「わが死顔」
夕暮の遺稿は、「わが死顔」だ。
「ともしびをかかげてみもる人々の瞳はそそげわが死に顔に」
にはじまる10首。
前年には、医師から絶対安静を命じられたのに、「詩歌」の経営、執筆をやめない。
翌年になっていよいよ死期を悟り、最後の力を振り絞って歌作する。この一連も追悼特集に遺詠として発表されるが、自分の死顔を見る人々を想定するとは、並のことでない。
「かそかにわが死顔にたたへたるすがしき微笑を人々はみむ」
自分の死顔に微笑さえ浮かぶという。
「生涯を生き足りし人の自然死に似たる死顔を人々はみむ」
ついには、自然死に似た顔とまでーー。
これらはまだ息絶えていない段階での作だから、自分の臨終の空想だ。
「わが死顔」の最後は
「左様なら幼子よわが妻よ生き足りし者の最後の言葉」
やるべきことはやった、もう思い残すことはないという心境での瞑目。
これほど見事な終幕の仕方、おそらく他にはない。
(2015年3月31日)
【往還集132】34 さきの世の母
前田夕暮の全歌集を読みつづけてきて、いよいよ最後の「夕暮遺歌集」。
その「昭和二十五年」つまり死去の1年まえに「物乞」5首がある。
「ある日老いたる物乞きたれり顔よごれたれど穏かに笑へり」
にはじまる。
この時代、物乞いをして、いくばくかの食や銭を恵んでもらう放浪の人が時々いた。訪ねてきたのは、老人。身なりは汚れているが穏やかな笑顔だったという。
「老いほけし物乞はいふさきの世の母なる人にあはせて下され」
さきの世とは現世に生れ出るまえの世。そのときはこんなに落ちぶれることなく、優しい母親もいた、その母にあわせて下されとは、同じような慈悲をお願いしますということだ。
「さきの世の母なる人が握りたる握飯を一つ下されといふ」
夕暮は大きな握飯を、手に置いてやる。
この場面、東西を超えた宗教性を感じさせる。
自分の子どもの頃も「おこも様」は、聖なる訪問者として迎え入れた。
(2015年3月30日)
【往還集132】33 つまずき
傍目にはほんの小さいことなのに、本人にとっては大きなつまずきになることがある。その一例を。
国語の授業ではよく起立のうえ朗読させる。私は新入生の最初の授業を「朗読の苦手な人はこっそり教えて下さい」ということからはじめる。
皆のまえで朗読できない子が、毎年いた。申し出た子を昼休みに呼び、読む練習からはじめる。
数回して自信がついたところで、実際に教室でやってみる。
順番に朗読し、その子の番になると脇に立って、こちらも小声で一緒に読んでいく。
はじめはほんの数行。しだいに行数を増やしていく。
くり返していくうちに、ついにふつうに読めるようになる。
授業が終ると追いかけてきて「先生、できた!」と、満面に笑みを浮かべる。
こういう子が毎年1~2名はいた。いつかどこまでつまずいて、そこから抜け出せなくなっていたのだ。
この個人練習の過程を、他の生徒はだれも知らない。
(2015年3月29日)
【往還集132】32 忘れること
忘れること自体はけっして悪いことではない。善とか悪とかをこえた自然現象ともいえる。
だから4年もたてば記憶から薄れることもありうるし、こちらだって生々しく甦っていたのでは心身がもたない。
だが、忘れることを強いられる、策謀されるとなれば事はちがう。
目下仙台を会場に国連世界防災会議が開かれ、明日閉幕する。
その一会場となっているメディアテークへ行ってきた。
「これは、なんだ?!」
が自分の第一印象。
3・11といえば津波と原発事故。そのうちの後者が小さい扱いしか受けていない。開会時の首相挨拶も同じ。
これはどういうことだとはじめは訝しみ、しだいに怒りが込み上げてきた。
国連が避け、政府も避け、つまり記憶からの抹消を策謀するこの動向。
さすがにひとつの部会からは批判が相次いだ。
忘れることを強いようとする、巨大で得体の知れぬ力、それが世界会議のどこかに潜んでいた。
(2015年3月17日)
【往還集132】31 生きあましたるわが世
「埴土」とは、粘土質を50%以上含んだ土壌。耕作には不向きだ。
その語を歌集タイトルにした『埴土地帯』が、前田夕暮にある。
空襲で危険になった東京を逃れ、奥秩父入河谷に疎開したのは1945年2月、63歳のとき。
チモールに出征した息子透は病で帰国不能の知らせがあって、ひどく落胆する。
しかし翌年6月に復員の報が入る。
そういう苦難を重ねつつ、安堵を得た日の作品に
「石の上に眠りてありし時のまにうつろひにけりわがうつし世は」
「ひそひそと水の流るる音きこゆ生きあましたるわが世愉しき」
がある。初老の年齢で山深い農生活に難儀しながらも、しだいに周辺の自然とも村人とも親和していく。
ぬくもりのある日には、石の上にうたたねする。
「生きあましたるわが世愉しき」という心境にもなる。
疎開生活1年8ヶ月の間に、歌人夕暮の手にしたのは、生と自然の融合という、大いなる境地だった。
(2015年3月6日)
【往還集132】30 ふたりの遊女
同じ家に住んでいる遊女。ふたりとも子どもを生むが、一方が寝ていて赤子に伏せたために死なせてしまう。女は別の子を自分のものだといいはり、ソロモン王の裁きを受けることになる。判決は剣で半分に裂いて分けるというもの。
「わが主よ、お願いです。その子を生きたままこの人にあげて下さい」
と一方が訴える。
この有名な逸話を旧約「列王記 上」でまともに読んで、いきなり現代にひきつけて考えてしまった。
第1、DNA鑑定があれば解決できたのになあ。
第2、遊女とは今でいえば風俗嬢、シングルマザーとなってまでも育てようとは立派ではないか。
そして第3、本当はこのふたり、王が剣を振りかざして真っ二つにしようとしたとき、どちらも「その子を生きたままこの人にあげて下さい」と懇願したのではないか。
最近、自分の近くにも、赤子をめぐる悲劇あった。だからなおさら、このように考えたくなった。
(2015年3月3日)
【往還集132】29 ネコの玉・続
母方の祖母は大地主かつ大商家の娘として、なんの不自由もなく育った。
やがて養子を迎え、息子2人、娘4人をもうける。
ところが次男は旧制中学入学の寸前に、急性腹膜炎で早世。長男のほうも戦中に結核になり、10年間の闘病ののちに、戦後ほどなく夭折した。
この不運に祖母は人間不信に陥ってしまった。
我が家は同じ敷地内に住んでいたから出入りが日常で、墓参りにもお供することになったのである。
墓地に着くと祖母は、二つの卒塔婆に花と線香をあげる。
それから卒塔婆を抱きしめ、「和男!」と呼びかけて号泣する。
つぎに「寿郎!」と呼びかけて、また号泣する。
このいきなりの変身に、最初はあっけにとられ、怖れをなしたが、回を重ねるにつれて慣れ、泣き終るまでかたわらで待つようになった。
帰りはまたネコの玉の石段で一休み。
「泣いだごど、だれさもだまってろよ」といって、青い玉をてのひらにのせてくれた。
(2015年3月1日)
【往還集132】28 ネコの玉
リュウノヒゲは、青い小さな実をつける。それを私は子どもの日に「ネコの玉」と教わった。
コネコがころころころがして遊ぶような、愛らしい玉の実。
前沢の霊桃寺(れいとうじ)は山の中腹にある。墓地へ行くには、さらに細い山道をのぼる。境内を出た所に石段があり、そこにネコの玉はいっぱいだった。
私は祖母のお供をして、何度も墓参りした。老いた人にはなかなかの難路、石段まで来ると一休みするのが習いとなった。
そのたびにネコの玉が目に入る。日差しに、きらきら光り、なにか神秘的な感じもした。
近くにはスズ(湧水の池)がある。そこで持ってきたヤカンに水を入れ、いよいよ墓地へと坂をのぼっていく。祖母にとってはここもまた難路だ。
「みづまさ(みちまさの訛)、手っこ、引けろ」というので、手を引いてやる。
自分は、まだ6、7歳。ヤカンを片手に下げ、もう一方の手は祖母の細い手を握ってやる。
(2015年3月1日)