【往還集126】35 ヤマザクラ

ソメイヨシノにかわって、ヤマザクラが満開に。

バス通りから家へと通じる坂道には、数本のヤマザクラがある。例年、ソメイヨシノが終わる頃になって、満開になる。満開とはいえ、色も形も控え目で、寡黙この上ない。それでいて、よくよく仰ぐとやはり美しい。人生の懐かしさーーみたいなものも感じさせてくれる。
藤沢周平原作、篠原哲雄監督の映画に「山桜」がある。舞台は庄内、一度目の夫を病気で失い、二度もまた不幸な結婚生活を送る野江。
ある日、ヤマザクラの一枝に手を伸ばすが、届かない。すると通りがかりの武士が折ってくれる。以前に縁談があり、自分から断った相手の手塚弥一郎だ。
手塚は、私腹を肥やす重臣諏訪を切り捨てた罪で、幽閉されるが、野江は思慕を募らせていくーーというのが粗筋。
この物語の花は、やはりヤマザクラでなければならない。
自分は録画した「山桜」を2度続けて観、さらに懲りずに、3度目を観ている最中です。
(2013年4月29日)

【往還集126】34 川内(かわうち)

52年前に住んだ下宿の建物がまだあった。
記念講堂前(現、萩ホール)の広場。

若冲(じゃくちゅう)がこんなに人気があるとは知らなかった。仙台博物館で若冲展をやっている。車で出かける。
と、長蛇の列ではないか。
諦めて近くの東北大学植物園へ。ついでにこの一帯の川内も巡る。
川内こそはわが青春の出発点。60年安保終焉の翌年のことだから、学内は文字通りガクガクしていた。それをも含めて、忘れがたい出発点だ。
最初の下宿先も川内の裏手で、地名は山屋敷。谷川沿いの坂を登り切ったところにある、見るからに安普請の二階建。わずか三畳間の狭さで、机と布団だけでいっぱいになった。
あれから52年。いくらなんでも、とうに消え去っているだろう。
深く切り込んだ谷川に沿って、坂を昇る。昇り切る。
すると、あるではないか、かの日と同じ二階建が。玄関も、壁の色も、窓枠もそのまま。ただし入口は閉鎖され、廃墟と化していた。
もう戻らない時間が、目のまえに。
これは一人だけの感傷です。
(2013年4月24日)

【往還集126】32 佐藤羽美『ここは夏月夏曜日』

佐藤羽美(うみ)の歌集は、フシギ歌の満艦飾だ。

「べえろんと夜風に腕を舐められる夏の終わりの葬儀であった」

「うっとりと頷き合って教室のカーテン裏に獏をかくまう」

これらはまだいい。

「風薫るコーラを飲んで制服を取り換えあって性交をする」

になると、最初は???、次にフムフム、そして最後には感慨まで覚えてしまう。
なぜか。
性を持ちながら性の枠に自分を押し込めず、それでいてなお性であるという、いわくいいがたい感覚が、ここにはある。
登場するのは、たぶん高校生のラブラブ同士だ。男の制服、女の制服はフェテシズムの象徴としてある。だから取り替え合うと一層性欲が高まる。社会的通念上は、一種の変態ごっこということになる。ところが「取り替えあって」は男の性欲を優先しているわけではない。両性同等だから、変態の感じがない。第一「風薫るコーラ」からして、カラッとしているではないか。
(2013年4月23日)

【往還集126】33 佐藤羽美『ここは夏月夏曜日』・続

「わたくしにいんけい生える朝があり無花果色のシーツを干しぬ」

というのもある。男に朝立ちがあるように、女にも朝に性欲の兆すことはある。それが「いんけい生える」だ。
私がこれまで抱いてきたテーマに、性差問題がある。性は当人の選択がないまま、全くの偶然によって振り分けられる。そして世の強制力によって一方の性を強いられる。だが実際は誰もが両方の性を持ち、究極においては「ひとつの性」であるにすぎない。その象徴としてあるのが、エクスタシーの瞬間だ。
ということを筋道立てて書けないものかと「華の激湍(げきたん)」を構想したことがある。しかし、そこまでやる時間はもうない。
佐藤羽美を読んでいると、性差を負って生まれ、その軋みに出会いながらも、ついには性差の彼方の「ひとつの性」を透視しはじめていると、私には感じられる。
これは巨視的にいえば、今後の人間を拓く新しさでもある。
(2013年4月23日)

【往還集126】31 桜満開と大雪

満開の桜が雪で被われ、やっととけはじめたところ。

ソメイヨシノが徐々に北上しはじめ、やっと仙台にもやってきた。
ところが郊外の山手にある団地一帯は、例年になく花が少ない。蕾のうちに山の鳥に啄まれたという説、いや今から萌芽しようとして連日の寒冷にやられたという説。どうやら後者が真相らしい。
それでもなんとか季節を迎え、満開になった。
ところがである、昨日から降りはじめた雪が朝になってもやまず、とうとう膝丈を越えた。66年ぶりの春の大雪だという。せっかくの花も、すっかり面目を失った。
もっとも、花に雪とは、めったにない風情ある景。重みに撓む枝の下に立って、仰ぎ見ることにした。
すると、白に被われながらも、ほんのりと紅色がのぞいている。その嗜虐的な美に、思わず胸がキュンとなる。キュンとは古めかしいが、やはりキュンだ。
自分が句の作り手ならば一句ぐらいはものするところ、短歌ではめろめろになるからいけない。
(2013年4月21日)

【往還集126】29 耳鳴り

耳鳴りが本格的にはじまったのは、昨年12月20日のこと。どうも普通ではないと思って、早速耳鼻科へ行ったから、この日と特定できる。
検査の結果は異常なし。左耳の聴力が少し落ちているから、それが原因のようだと。数年前にも耳鳴りがしたので、メチコバールを処方してもらい、3日で治った。今度もそんなものかも。
ところがいやにしつこい。キーという金属音が昼となく夜となく鳴りっぱなし。
以後、耳鼻科に通い、内科でも相談し、接骨院で鍼も打ってもらうが、一向におさまる気配がない。パソコンで「耳鳴り」を調べたら、情報は満載されている。よくある症状なのだ。加齢によることが多いから、付き合っていくほかないというのが大方の説明だ。
とはいえ、気にするなといわれると、かえって気になって、鬱になる人もいるという。自分の場合は軽度・中度・強度のうち中度のようだ。
(2013年4月18日)

【往還集126】30 耳鳴り・続

こうして4カ月過ぎる。
どうもおもしろくない、医学の進歩している時代、耳鳴りごときにお手上げだなんて。さらに調べたら仙台に耳鳴りの専門医がいるとわかった。予約して、今日行ってきたところ。その報告です。
まず5枚もの問診票に記入。先生が時間をかけて問診。別室に入り、聴力、耳鳴りの種類と強度、脳との関連を検査。
それらをもとにした先生の診断は「これは病気ではありません。聴覚の細胞が壊れているのでもとには戻りませんが、薬で進行を抑えることはできます。加齢やストレスが契機となることが多いようです」。
それから先生は、3・11以降の経過を親身になって聞いてくれ、「それが関係しているかもしれませんね」と穏やかにいってくれた。
細胞が壊れるーー、老いるとはそういうことだ。それならばこれからは立ち向かうのでなく受け入れることを考えようと、自然に思えてきた。
(2013年4月18日)

【往還集126】28 ふたたびの土

今朝は霜が降りて屋根がまっ白。もう4月半ばだというのに。桜もまだ蕾が固い。
それでも周辺の山の色は、急速に変りはじめた。茶褐色に薄紫色が兆し、さらにほんのりと黄緑色を加えていく。
こうなればもう春耕のはじまりだ。農具を車に乗せて、畑へ。畑の傍らに植えた2本の白梅が満開。柿の枝が伸び放題なので、剪定する。冬越しのナノハナの柔らかい茎を、たっぷりと摘む。それから長い間眠っていた土を、掘り起こしていく。ときどき冬眠中の蛙もいるから、注意しつつ。
きょうはまずこれだけの作業だが、土に触れる感触が手から全身へと伝わって、久しぶりの爽快さ。
父親の実家は岩手県水沢の農家。祖母は高齢になり、足腰が立たなくなったというのに、畑に出ることをやめなかった。土に向かうのが、一番の自己開放の時だった。
その東北農民の血が、この季節になると自分にも蠢き出すというわけだ。
(2013年4月13日)

【往還集126】26 縄文人に

先日、車のバッテリーが上がってしまった。エンジンをかけても、うんともすんともいわない。
幸い、街の駐車場だったから、会社に電話して間もなく来てもらった。
これが山のど真ん中だったなら、ほぼお手上げ。ぞっとする。
そしたら今度はパソコンが不具合になった。 これもまたお手上げ。
息子に来てもらってやっと修復し、今日から起動することができた。
マシンに関してはお手上げがいくらでもある。それが一気に集中してやってきたのが、3・11のときだった。生活を成り立たせているほとんどがストップ。
あのとき、いつの間にか文明にすっかり毒されていることに、打ちのめされた。結局、頼りになるのは人間の素手だということも再認識した。その素手をどれだけ養っているかが勝負なのだと、身に沁みてわかった。
つまり縄文人に戻れば、あわてふためくことはないのだと。
問題は、どこまで戻れるかだ。
(2013年4月11日)

【往還集126】27 「麦と兵隊」

今になって火野葦平を読むとは思ってもみなかった。
きっかけは宮柊二だ。彼の戦中書簡に、火野への違和感が記されている。それはそうだろう、実戦兵と従軍記者にはどうしようもない裂け目がある。
とはいえ、自分は翼賛文学者にして戦後の追放作家たる火野葦平を読んでいない。それではダメだと反省して、まずは「麦と兵隊」から入りはじめた。
私のイメージは変わった。戦場の様が相当リアルに描かれている。場合によっては好戦から反戦へ反転する、きわどさもある。
結末は、3人の支那兵が斬首される場面だ。「後に廻った一人の曹長が軍刀を抜いた。掛け声と共に打ち降すと、首はまり毬のように飛ぶ、血が簓(ささら)のように噴き出して、次々に三人の支那兵は死んだ。私は眼をそら反した。私は悪魔になってはいなかった。私はそれを知り、深く安堵した。」
昭和13年の作。こういう従軍記の掲載を、世はまだ認めていたのだ。
(2013年4月11日)