雪は、美しい。しかし怖い。毎日のように降りつづくと、しだいに恐怖を覚える。なにしろ家屋のあちこちが、不気味に軋んでくるのだ。こうなれば雪おろしをしなければならない。仙台に家を建てるとき、設計士はここでは雪おろしをするほど積もることはないといった。信用して雪止めもつけなかったが、いきなりの大雪。いよいよ危うくなったので、スコップを手にして二階から屋根へ出る。腰にロープを巻きつけ、その端を机の脚に固定する。これで安心。 屋根のひさし、ぎりぎりまで足をのばし、分厚い雪をおろしていく。汗をかく。やっと終わってもどってきたとき、机に結んだはずのロープがはずれていると気づく。そこには3歳の息子がいて、腕にぐるぐる巻きつけている。「お父さん、ぼくもっててやったよ。」!!!自分は怒る。なにごとかとみにきたその子のママは、笑いがとまらない。今でも思い出しては笑う。
(1月31日)
カテゴリー: 往還集123
【往還集123】9「雪の音」
この冬が寒冷つづきで雪も多いのは、予想外だ。岩手に生まれ育った自分は、雪の聖性も魔性もしりつくしているつもり。したがって、賢治の描いた「雪渡り」の世界も、「ひかりの素足」の世界も、感覚としてよくわかる。前者が聖性とするなら、後者は魔性。雪は、地上を一夜にして天上界に豹変させるほどの真白さだが、人命を奪う魔性も秘めている。この両極端をはらむから、一層魅了させるのだろう。
自分は、雪の朝になると、誰の足跡もつかないまえに歩きたくなる。手つかずの、聖なる世界に踏み入るような気がするのだ。
それだけでない、足裏に生じる音も楽しい。凍えきったときの音は、キュッキュッだ。湿りを帯びたときは、ムスッムスッ。気温の状態によって、微妙にちがってくる。「雪渡り」は、キックキックキックキックだ。これは、かなりしばれる(方言で、厳しく冷え込む意)日の雪音だ。
(1月31日)
【往還集123】8「支え合う松」
寒冷がつづく。今朝は-8度。これでは仮設住まいはつらい。水道凍結もつぎつぎに起きているという。
そんな今日、一人、荒浜へ。浜辺近くに、慰霊塔が建立されたと聞いていた。東部道路をくぐると、急にだだっ広くなり、瓦礫を運ぶダンプが行き交う。倒木の伐採工事がはじまっている。
慰霊塔は立派に出来ていた。用意した花束をささげ、黙祷する。
今日は、海に近い道をたどる。破壊された建物や機器が投げ出されたまま。手つかずの個所は、まだまだあるのだ。貞山堀沿いに松の並木があったが、ほとんどが流されている。と、二本の松の構図が目に入る。倒れそうな細長い幹を支える、もう一本の松。瞬間、「支え合う松」の名称が浮かんだ。太平洋をまえにした龍の形の松が評判になっている。あれは神割崎。荒浜は、これでいこうと自分は独語する。評判になどならなくていい。人知れぬ独語だけで、けっこう。
(1月25日)
【往還集123】7「HUDSON(ハドソン)」
どうも筆がうまく運ばない、凡々たる発想しか出てこない、わが才もここどまりか。
こんなふうに落ち込むことがある。気分転換が必要。
立ち上がる。
靴をはく。
歩いて15分のところにある「ヒルサイド」へ。一階にレストラン「HUDSON(ハドソン)」。大型客船のシェフだった若月さんが経営する。味が抜群で評判がいい。
扉を開けると、色鮮やかな花の壁画が、まず目に飛び込む。白いレースのカーテンが、野をわたるそよ風のようだ。入ってすぐ右側、大きな木のテーブルがある。自分のお気に入りは、ここ。コーヒーを注文し、ぼんやりと飲む。
このレストランができてから、17年になる。はじめの名は「ブランメル」。そのときから自分はこのテーブルを偏愛してきた。なぜって、広くて、木の手触りがよくて、ほっとさせるから。
こうして少時の休息ののち、またしごとへもどっていく。それだけのことなれど。
(1月23日)
【往還集123】6「短歌の集い 被災圏からの発信」
「河北新報」歌壇を担当している自分は、被災圏から届く歌の多さと濃密さに圧倒されつづけていた。これまでの震災詠とはちがう何かがあると実感した自分は、検証する場を設けたいと考えてきた。しかし仙台圏は被害がひどく、会場が見つからない。冬になってやっと可能になったので、仙台文学館を借りて「震災詠を考える~被災圏からの発信」を開催することにした。主催は路上発行所、それに実行委員が協力してくれる。
4月1日(日)13時から15時半。
第一部は「自作朗読+メッセージ」で、直接の被災者斉藤梢・柿沼寿子・小野寺洋子各氏にお願いした。
第Ⅱ部は対談「新聞歌壇と震災詠」で花山多佳子氏と自分。
定員100名。参加費無料。
目下チラシ作りをしていますが、広くは行き渡らないと思います。関心をお持ちの方は共催先の仙台文学館へお問い合わせください。
TEL022(271)3020
FAX022(271)3044
(1月21日)
【往還集123】5「歌集『青白き光』」
原発のことは何も知らなかった、知らされもしなかったという声がかなり出た。「それはないだろう」と自分は思う。女川原発の計画が出たとき、熾烈な反対運動が起き、自分も加わった。巨大な力には太刀打ちできなかったが。
原発の町に住みながら意志を貫いた人もいる。佐藤祐禎『青白き光』(いりの舎文庫)こそがその証明だ。1929年大熊町生まれの「アララギ」歌人。
原発に勤めて病名なきままに死にたる経緯密かにわれ知る
この子らはいつまで生き得む原発の空は不夜城のごとく輝く
原発が来たりて富めるわが町に心貧しくなりたる多し
わが町は稲あり魚あり果樹多し雪は降らねどああ原発がある
人類が世界で最も悪者と自らに知るとき救はれむ
(1月20日)
【往還集123】4「太陽光パネル」
年金生活者にゆとりなんてあるわけがない。けれどこれだけはしておかなければと、大枚をはたいてパネルを設置した。22枚。費用220万789円。補助金17万9520円。
放射能問題は身辺にも及んでいる。公園の落葉掻きは自分の得意とするところなのに、禁止になった。家の仕事をよくお願いしていた人は大熊町の出身。両親が退避を余儀なくされてアパート住まい。母親が不調になり、福島県を離れることを拒むので仕事をやめて帰るという。 とてもいい人だったのに残念でならない。富岡町の知人はガンの手術後を養っていたというのに、追い出された。悲しい話はつぎつぎとある。避難者に鬱が多発していることも、伝わってくる。
だのに、こちらはあまりにも、あきれるほどに無力だ。とりあえず太陽光パネルを取り付けて、脱原発をめざすことぐらいだ。この効果については、わかってきたら「往還集」でも報告します。
(1月18日)
【往還集123】3「道元の視野」
超難解な『正法眼蔵』を少しずつ書写する生活を送っているので、たびたび道元の話題になって恐縮。今日写したのは「無情説法」(一七)だが、その視野の広さには思わず眩暈を覚えてしまった。どういうことをいっているか、石井恭二訳で紹介してみたい。
「およそ真理を聞くのは、ただ器官としての耳とそのはたらきによるものではない。人の未だ生まれぬ前、天地開闢以前、さらに終わりない未来、尽きることのない未来にわたり全時間にわたるまでの力によって、全身を挙げた意識をもって聞くのである。身心を超えて真理を聴くのである。」
つまり、人類発生以前から、尽きることなくつづく未来まで、道元は視野におさめている。これをさらに延長すれば、地球発生以前の宇宙から、地球消滅以後の宇宙まで含まれることになる。
鎌倉時代に、すでにこんなことを考えていた人物がいたとはねえ。ほとほとまいってしまう。
(1月16日)
【往還集123】2「大和克子」
「歌人大和克子儀十二月三十日、九十一歳の長寿を全うし永眠いたしました。」訃報欄にこの文を見つけたのは、3日のこと。今日告別式に行ってきた。
自分は学生になった年に「短歌人」に入会したが、そのとき宮城県で指導的役割を果たしていたのは大和克子。以来、公私にわたってお世話になった。1921年生まれだから、20代でまともに戦争に巻き込まれる。その体験から新憲法を一貫して支持し、仮名遣いもあえて新仮名を使い通した。「日本歌人」をへて「短歌人」に参加、中心的存在であり続けた。近年は表に出ることがなくなり、親族に尋ねても教えてくれなかった。認知症になり、ホームへ入ったとも聞く。美貌かつ才気煥発だったから、衰えを見せたくなかったにちがいない。
自分が短歌開始期に出会った人は次々に亡くなっていく。
「短歌人」の大和類子さん、蒔田さくら子さん、どうか長生きしてください。
(1月5日)
【往還集123】1「昔は海」
正月も明けた。寒冷つづきだったが、午後になって日差しが出て来たので、サイカチ沼へ。
雑林は葉を落とし尽くしている。山の傾斜に合わせて上下する遊歩道が、縄梯子のようだ。
湖面にはカモが浮いているはずーーと思ったら、一羽もいない。静まり返って、小波だけが伸び縮みする。
と、よく見たら、湖をせき止めるコンクリートに一羽ずつ並び、日向ぼっこしている。一声も立てずにじっとしているから、見逃すところだった。
湖沿いの道を歩いていくと、祖父とその孫と思しき二人が、赤土のあらわな崖に這い上って、掘削している。「何か探しているのですか」と聞くと、「貝の化石です。昔はここが海の底だったから、いまでも出てくるんですよ」という。昔は海、ということはまたいつか海になるかもしれない。
話はこれだけだが、いきなり億単位の時間がユワーンと撓んでくる気がした。
(2012年1月4日)