古川女子高校に勤務していた5年間、小牛田駅近くにアパートを見つけてそこから通勤しました。
短い期間でしたが、自分にとっては新婚の地、長男出生の地、さらに同僚や生徒との交流も濃密な、忘れがたい町です。
宮沢賢治研究も、この地で本格的にはじめました。
小牛田にはかつて財団法人斎藤報恩館がありました。東北砕石工場技師となった賢治はここに何度か足を運んでいます。
当時の館長が盛岡高農の先輩だったので、宣伝を兼ねての訪問です。
徒歩なら駅から40分ほどの行程。
私も何度か歩いてみました。
そうしているうちに賢治の姿に出会う気さえしてきました。
児童出版社から賢治伝の依頼が来たときも、その時代を詳しく描写しました。
しかし偉人とは程遠いみじめな時代。出版社の意図とは大きくかけ離れていたのでしょう、200枚ほどの原稿は没に。
以後どこに閉まったものか、今も見つかりません。
(2019年9月20日)
月: 2019年9月
【往還集146】15 「ミニコミ誌 こごた河北」
NPO法人「小牛田(こごた)セミナー
という分厚い「こごた河北」をいただきました。
10人のグループが2003年から2019年に渡り隔月で発行、「河北新報」定期購読者を中心に無料配布。終刊を期に1冊にまとめたというのです。
地方誌自体は、よくある。「こごた河北」もその1例ですが、開きはじめたら地域の問題のみならず世界動向にも目を配る、かなり濃密な内容です。
「小牛田風土記」が連載されている一方、「中国の現在」もある、前川喜平氏講演会の記録さえ掲載されている。
つまり1地域に足場を組みながら世界をも視野に入れている。それぞれの文章力も並ではない。
これだけのミニコミ誌が成立したのは小牛田(現美里町)だからこそ。東北本線の駅「小牛田」は東西へ走る支線の始発駅、鉄道の町です。旧国鉄時代に育まれた気風(自由ながら芯もある)が今も文化風土として生きている町なのです。
(2019年9月19日)
【往還集146】15 呼名
在日についての問題を、なぜ連続して取り上げてきたか。
それは近年の日韓関係がひどくつらい状態になっているからです。
私は在日の生徒たちに何人も出会ってきました。優れた子たちはいっぱいいました。
氏名は日本名にしているので普段は国籍も両親の出自もわからない。しかし面談してみるとそれぞれに固有の問題を抱えていました。
せめて堂々と本名を名乗り、周辺も自然に受け止めるようになってほしいと願ってきました。
1996年といえば私が最後の学校宮城広瀬高校に赴任した年です。
入学式がはじまり、新入生の呼名がはじまりました。全部で7クラス。
女性の担任がいきなり、しかしごく自然に
「ヤン・ミジョン」
と呼びあげ、当の生徒がすくっと立ちました
やっと自分の本名を堂々と公の場でいえる時
代がきた!
それは秘かな感銘でした。
今も「ヤン・ミジョン」の澄んだ声が、耳の奥に生きています。
(2019年9月12日)
【往還集146】13 交流
仙台の高校に転勤し、数年後に生徒指導部に所属しました。
事件・事故には数多く対面することになりましたが、意外だったのは戦前・戦後などと無縁のはずの生徒たちに、在日の人への蔑視があることでした。
仙台には朝鮮学校があります。両校のツッパリグループはたびた衝突し、補導されていました。
「なにがそんなに憎いのだ」と当の生徒に聞くと、「なんだか知らないけれど、なんとなく」と応えるのみ。
もっとも教師のほうも相手校の実態がわからない。
私は生徒部全員で朝鮮学校の訪問を提案し、実現することができました。
学校は八木山の雑木林のなかにあります。校舎見学、授業参観、先生たちとの座談。
この教師同士の交流が生徒間にも伝わったのでしょう、こちらが不思議に思うほどに衝突は消えていきました。
そればかりか朝鮮学校のサッカー部を招待し、放課後の校庭で交流試合をすることもできました。
(2019年9月12日)
【往還集146】12 石つぶて
裏通りには北から南へと流れる用水路があり、歩道も連なっている。そこが自分たちの通学路で、車道は一段下がったところにある。
先頭を行く同級生が、怪しげな風体の男を見つける。黒牛を引いている。
「チョーセンだ」と耳打ちする。
2人目も「チョーセンだ」と応じる。
誰が先ともなく石つぶてを拾って「チョーセン、チョーセンベーゴ」と囃し立てて投げる。
自分も、つぶては拾わなかったものの一緒に叫んで走る。
頭部を腕でかばおうとするその人、暴れる牛をなだめようとするその人。
〈事〉としてはそれだけなのですが、以来、今に至るまでこの日の事を反芻しつづけてきました。
愛犬を殺したのがその人という確証があるわけではない、だのにチョーセンが犯人だと決めつけた、背景には大人社会の差別意識があり、子どもにも伝播していた、だからといって差別する側に属していた自分を許すわけにはいかないーと。
(2019年9月12日)
【往還集146】11 学校帰りのこと
それは小学5年生のときのことでした。
教室に入るなりOさんが泣いて訴えるのです。うちの犬がいなくなったので探したら、チョーセンの家の壁に皮になって干されていた、父ちゃんとワケを聞きに行ったら、鉄道の脇に死んでいたので皮にしたといい張る、あれは絶対ウソだ、つかまえて殺したんだーー。
Oさんと散歩中のその犬を見たことがあります。毛のふさふさした名犬でした。
当時町はずれに、廃品業を営む家があり、粗末な服装で、髭もぼうぼうの朝鮮人が住んでいました。
その異様な風体を不気味がって、子どもたちはチョーセンと陰口し合っていたのです。Oさんが泣きながら愛犬のことを語ったとき、チョーセンへの怖れと憎しみが湧いたのにはそういう下地がありました。
それから数日たった下校時のこと、黒牛を引きながら町の裏通りを行く男を見かけたのです。
こちらはランドセルを背にした同級生4人。
(2019年9月12日)
【往還集146】10 ハズキルーペ
外へ出かける用も少なくなった、この際読みたくて買っておいた本をどんどん手にしていこう。
そう思い立って書庫から取り出してきた本が100余冊。
ところが読む段になって視力の衰えに直面。音楽通の知人は「聴力の衰えた時が恐怖だ」とよくいっていましたが、自分の場合は目です。
どうしても必要な資料は拡大コピーして凌ぐほかありません。
そこに現れたのがハズキルーペ。メガネのうえにさらに拡大用メガネをかければ、細かい字も見えるのです。
このアイディアは革命に等しい。
ところがテレビコマーシャルが批判され出した。フレームの強度を示さんと美女がデカ尻でメガネに坐ってみせる。
まちがいなく性差別だとさわがれるぞと案じたら、やっぱり。
さわぎをコマーシャル効果へ上乗せしようとして、中止の気配もない。
私の意見、「そこまでしなくても販路はまちがいなく広がるのに、社長もスキだねえ。」
(2019年9月10日)
【往還集146】9 生と死の境界・続
それではどうしたらいいか。
まず若年齢の時期には、生死の境界の希薄感を抱く人が少なからずいる、そのことをまず理解しておきたい。
そのうえでどうするかといえば、じつは残念ながら打つ手はない。
ただ近くで、また遠くで見守り、卒業や成人の暁には「よく生きぬいてくれた」とひそかに乾杯するほかない。
私は現職時代校内カウンセラーを勤めてきました。
その過程で、危うい状態の子10数名を切り抜けさせることができた。
しかし教師の職業は、うまくいった場合は誰もほめず、悪くいった場合だけ手ひどいバッシングを受ける、そういうものです。
事故・事件が起きると、あの学校は、教師はなにをしているのだという非難が突出しますが、それはウソです。地道にいい仕事をしている教師はいっぱいいる。外部にはそれが見えないだけ。
むしろ成果を誇りたがる学校・教師がいたとしたらその方が怪しげなのです。
(2019年9月9日)
【往還集146】8 生と死の境界
報道に接するたびに胸を痛める。それは小・中学生の自裁事件です。
ある日、何の前触れもなく我が子が命を断つ。
保護者はその理由がわからず、いじめや教師の暴言を責めて訴訟さえ起す。
この件については大変発言しにくいのですが、やはり記し留めておきたい。
というのも自分自身が子ども期から成人するまで、とかく自裁願望があり、危ういところで切り抜けてきたという体験を持っているからです。
デリケートな性格の子にとって、生と死の境界は何度でも希薄なときがある。いじめや暴言がきっかけで行動に移す例はあっても、多くはそれ自体が主因ではない。
最も近くにいるはずの親にこそ、そういう子どもの内面は見えないし、子どものほうも100%親にはいわない。
ですから事故が起きたとき保護者は仰天し悲嘆し、もっとも手近な原因捜しをはじめる。「これでは我が子がかわいそうだ」と訴訟さえ起こします。
(2019年9月9日)
【往還集146】7 交点
武田氏のいう「とんでもないことが内外に起きそうで不安でしかたがない」に同感するところがあります。
ただしそれほど神経症的にはなっていない。なぜだろうと思案してみたのですが、どうやら東日本大震災とその後のがん体験との遭遇が関係しているようなのです。
つまり「とんでもないこと」はすでに起き、ことに原発問題はなお未解決、そのうえ生命の終焉に結びつくがん細胞を自ら内胎させたこと。
加藤周一が「サルトル私見」で「歴史の過程と人生の一回性」というサルトルの課題を提起していましたが、このふたつの軸の交点に身をもって立ち合っているようなのです。
「いったい、なにをいわんとしているのだ?
と読者は不審がられるでしょう。私自身、交点に立ち合っている自分を語ることばが、どうもうまく手にできていない。
これから少しずつでも、作品やエッセイに表現できれば、と思っています。
(2019年9月8日)