短歌は定型の文学であり、世界規模からしたら辺境の地の小詩型にすぎない。
それを世界文学とか世界思想にするとはどういうこと?
この疑問は当然出てきます。
定型を破壊するほうが早道ではないかという意見もありえます。
が、破壊しても破壊しつくされない魅力のあることも否定できない。
それならば破壊ではなく、逆にきわめることによって、世界への通路を手にする方向があっていいのではないか。
これが私の考えです。結社はやめてしまいましたが、問いを忘れたことはありません。
宮柊二『柊二初期及び『群鶏』論』と『『山西省』論』を書いたときも、〈優れた歌人〉宮柊二を読み解きたかったわけではない。
最終目標は世界文学たらしめること、そのために〈短歌でありながら短歌を超えること〉にありました。
こういう試みがうまくいったかどうかは、もっと時間がたたなければ見えてこないと思っています。
(2018年11月29日)