【往還集143】40 処世の原則

「彼らは状況の推移を注意深く観察し、より強力にみえる側とは妥協し、より弱そうにみえる側には攻撃を加えて、自己の勢力を拡張し、要するに、強きを援けて弱きを挫くことを、処世の原則としていたようにみえる。」

これは、目下の与党状況を語ったのではない。
加藤周一が「新井白石の世界」で、白石の『藩翰譜』を解説している1文、つまり戦国大名の実態の指摘です。
だのに、なんと目下の与党と酷似していることでしょう。
つい先日の党首指名選挙では地方票が接戦だったのに、議員内では圧勝。
なかには3選への批判もあるはず。今の内閣のやり方、あまりにひどいと影口を叩く党員だって少なくないーーはず。
だのにいざとなれば保身を優先させて、反旗をひるがえしたりしない。
そればかりか強い方へすりすりする。
ということは君臨者が落ち目と見れば、さーっと離れることまちがいない。
君臨と崩落は紙一重です。
(2018年9月27日)

【往還集143】39 筆記

短歌の話題は「歌の遠近術」でやるので、「往還集」からははずすことにしています。 
といっていながら『短歌』10月号の「吟行歌会」を開くうちに、おもしろいことに気付いたので書きます。
参加者は三枝浩樹・春日いづみ・内藤明・梅内美華子・大松達知・嵯峨直樹・佐佐木定綱の7名で、奥多摩の澤乃井に出かけたのです。
その模様を何枚かの写真が伝えていますが、三枝・春日・梅内は手帳に筆記している。内藤はほぼ手ぶら。大松・嵯峨・佐佐木は片手でスマホを操作。
そうか、梅内を境に筆記手段が変わっているのだと〈発見〉しました。
だからってなに?と問われてもすぐにいい答は出てきませんが、メモも歌作もスマホの時代がとうにはじまり、年々ふえるのはまちがいありません。
そう思うからでしょうか、筆記派の姿がどこかなつかしく、いじらしい、そして全身で書いているって感じがしてくるのです。
(2018年9月26日)

【往還集143】38 価格15円!

本は凶器と実感したのは、宮城県沖地震のときでした。
こちらは関心を持つ分野が複数なので、本の数もいっぱいになる。
そこに地震が直撃、本棚は総崩れ、柱も軋んで危い状態に。
で、書庫を特注して郊外に移ったのですが、年々またしても本の山。
この文化財をゴミにして焼却するのはしのびない。
近年になって古書を買い取り、ネットで販売する業者が出てきました。
商売として成り立つとみえて「もったいない本舗」「VALUE BOOKS」をはじめとして何軒も。
このシステム、私にとってはありがたい。蔵書の整理をするときも、逆にこちらで文献を求めるときも利用できる。
つい先日も『日本古典文学大系 親鸞集・日蓮宗』を購入。
ズシリと重い立派な本。
ところが価格はわずか15円!
あまりの廉さに泣きたくなるではありませんか。
必要な人に使われるならそれでいいと、本は納得しているかもしれません。
(2018年9月25日)

【往還集143】37 蔵書

竹内オサム氏は長い間子ども文化・マンガ文化についての個人編集誌「ビランジ」を刊行してきました。近号で42冊目。
その号に川勝泰介氏が「蔵書の処分の仕方」という興味深い話題を提供しています。
長年の大学教師も退職目前、さて膨大な蔵書をどうするか。
何個所かの図書館は引き取ってくれた、絵本は幼稚園に寄贈できた、段ボール10箱の全集物は古書店に売却した。
なぜ売却したか、それは故上笙一郎(かみしょういちろう)氏の話を思い出したから。

「自分が死んだ後の蔵書は古書店に売却する。大学図書館に死蔵するよりは、必要とする人の手に渡った方がその本も活かされるだろうから」

児童文学研究家の上氏には私も面識がありますが、多くの貴重な文献の蒐集家でした。 
いかにも公共施設に寄贈しても大抵は箱で積まれたまま、「○○文庫」と名づけられて展示されるのは、ほんのごく1部だけが実態です。
(2018年9月25日)

【往還集143】36 80歳限度説

私は75歳、後期高齢に仲間入りしました。以後、命終までの日々はどのように展開されるか、この問題をわが身のこととして考えはじめました。
私は歌を作り評論も書く身ですから、そこに焦点を絞ります。
歌はかなり高齢になり多少ボケても作ることができる。ボケはボケで味があるとさえいわれてきました。
それなら評論はどうか、多くの資料を読み、思索し、自分の論理を組み立てる場合はーー。
自分の勘では80歳が限度。体力・気力・知力の境界はどうもそのあたり。
もっとも「歌壇」に「戦争と歌人」を連載している篠弘氏は1933年生まれですから目下85歳。
この年齢で膨大な資料に当り論理を組み立てているさまは驚異的です。
80歳が限度などと弱音を吐いている場合か、人類史の初問題として挑戦すべきではないかと叱咤しはじめています。
もっとも命終は意志を超えた天命の問題、どうなることでしょうか。
(2018年9月14日)

【往還集143】35 老人問題

がんの5年生存率が65.8%、部位によっては98・4%と報じられたのは9月12日、今日14日には100歳以上の超高齢者が6万9785人と報じられました。
20年まえならこの達成を手放しで喜べだのに、今は複雑な心境です。
栄養改善、医療技術が進展すれば寿命がのびるのは当然。

「老人問題は、老人の問題ではなく、人間そのものについての問題であり、社会問題であり、政治問題であり、人類史の問題であり、そして科学そのものの問題であり、更に精神医学の再変革につなげる大問題である。」

とすでに予告したのは、精神科医島成郎です。この点は「路上」141号の「佐藤幹夫『評伝島成郎』読了まで」でもとりあげました。 
かく予告をした島が、そうそうにあの世へ往ってしまったのはなんだかズルイ!
残された者は「これからの長寿にどう向かうべきか」という、人類初の難問に直面せざるをえません。
(2018年9月14日)

【往還集143】34 『水曜日の本屋さん』・続

「私もあの本を一緒にさがすがない。〈しかたがないさ、まだ半分までしか読んでいなかったからね、終りまで読む時間などとても〉
 
「本屋のおねえさんが〈あの本は今朝売れました、クリスマスプレゼントに〉という」 
「おねえさんは赤いリボンをかけた金色の包みをおじいさんにさし出す。〈私からのクリスマスプレゼントです〉

「それからにっこりほほえんで〈でもたまには顔を見せてくださいね〉

「おじいさんもにっこり。なんだか世界中がほほえんだよう。おじいさんは軽々と包みをかかえて帰っていく」
以上がおおよその筋書きですが、これだけではおもしろさが半分も伝わらない。
絵本であるからには絵も重要だから。で、もし見かける機会があったら手にとってみてください。
私は常々、絵本の不思議さについて思いめぐらしています。
文字を修得する以前の子どもたちの、ゆたかな文化財としての絵本の世界について。
(2018年9月8日)

【往還集143】33 『水曜日の本屋さん』

近くの広瀬図書館には子どもの本のコーナーがあります。
絵本もいっぱい。折々開いては「いい話だなあ、だれかに伝えたいなあ」というのに出会います。
そういうなかの1冊が『水曜日の本屋さん』(シルヴイ・ネーマン文、オリヴイエ・タレック絵、平岡敦訳 光村教育図書)。
おおよその筋書きを紹介します。
「水曜日は学校がお休み。私はいつも本屋さんへ行く。するとあのおじいさんも決まって店にいる」
「私は絵本が大好き。おじいさんの読むのは分厚い戦争の本」
「私は読みながらくすくす笑う。おじいさんは時々涙をふく」
「本屋のおねえさんに〈この本が売れてしまわなければいいけれど〉

「つぎの水曜日おじいさんはいない」
「そのつぎは来ている。〈この本がまだしばらく売れずにいてほしいね〉という」
「もうすぐ冬。店のなかは、クリスマスの飾りつけ」
「クリスマスまであと3日。おじいさんは店に入る。あの本がない」
(2018年9月8日)

【往還集143】32 成長について

せっかく『貧しき人々』をとりあげておいて秋の描写だけですませるのはいかにも片手落ち、大切なことも書きます。
これはドストエフスキーの出世作。舞台はペテルブルグ、登場するのは下級官吏のマカール47歳と両親を失い頼りない生活をしているワルワーラ。
この2人が手紙を交わし合う構成ですが、30歳ほどの年齢の差がある中年男性とうら若い女性で、はたして対等の交流が生じるのかどうか。
これが私の疑問でしたが、作品が進むにつれてワルワーラが成長するだけでなくマカールもまた成長していく。
私は川端康成の『眠れる美女』を思い浮かべます。老年の男性が薬で眠らせた女性と添い寝するが、トラブルが出て女性が死亡してしまうという粗筋。
そこでは若い女性は〈人形〉でしかない。中高年男性の少女観の典型ともいえます。
『貧しき人々』はちがう、両者とも人間として対等の関係を築き、成長していく。
(2018年9月7日)

【往還集143】31 秋について

9月に入り、日数を重ねるうちに、「あ、秋」とつぶやきたくなる涼気が、朝夕の四辺を占めるようになりました。
秋にかかわる日本の古典は、いっぱいあります。
近代以降の作品にも〈名品〉を見つけることができます。
海外の文物については詳しくないのですが、私には忘れがたい1篇があります。
それはドストエフスキーの『貧しき人々』47歳のカマールと18歳(推定)のワルワーラの往復書簡という構成ですが、そのなかで彼女が幸福だった日の故郷を思い出す場面があります。湖近い田舎の夜の景色。

「水辺のすぐそばで、漁師たちが枯れ枝か何かを焚いており、その光が水面を遥か彼方まで伝っています。空は冷たい群青色で、地平線の辺りには赤く燃えるような帯が幾筋も伸びているのですが、その帯が時間がたつにつれ少しずつ薄い色になってゆき、月がでます。」(光文社古典新訳文庫『貧しき人々』安岡治子訳より)
(2018年9月7日)