先日の岩手大フオーラムの鼎談で、賢治の短歌が一人称から逸脱している点を話しました。
一人称とは作品の背後に一人の〈我〉がいるということです。
〈我〉が際立ってきたのは、明治になり、西洋文化がどっと押し寄せてきて以来。
若い文学者たちは自我の眼ざめを大いに唱えました。
賢治もそういう新風と無縁ではない。
しかし、感性のほうはうまくおさまりきれない。
だから奇妙な短歌が量産されたのですが、もし賢治が明治以前に生まれたならどうだったろうかと、近頃考えているのです。
自我が前面に出ない中世・近世なら、一人称ももっとゆるかったのではないか。
自分は、これらの期の文物をすでにひととおり読んではきたものの、はっきりした問題意識を持っていなかった。
遅ればせながら開いてみようと、書棚から何冊も抜き出してきたところです。
まずは『古典文学大系 歌論集 能楽論集』(岩波)1冊から。
(2018年4月12日)