私の住む団地を造成するとき、社長は桜の園にする夢を描いたらしい。1区画に2本ずつのソメイヨシノを植えた。
そこに移り住んで22年、なるほど一斉に花開いたときの景はみごとでした。
ところが樹木は年々成長する。特にうちの2本はなぜか町内でも1、2位を争う太さになった。
数年たって駐車場を作るために1本を伐採。もう1本はさらに伸び、電線にまでかかりはじめた。
近所の人たちは「きれいですね」とほめてくれるが、いつまでもこれではいけない。
年々迷ってきて、この4月ついに決心。花の終りを待って業者に伐採してもらったのです。
急に大樹の消えた空白感。
空がいやに明るすぎる。
近所の人も「おや?」という表情で通っていく。
けれど3日目から、そこに〈在った〉記憶は薄らぎ、〈無い〉ことが普通になってきた。
これは人間の場合も同じ、残された人は消えた人の不在にほどなく慣れていきます。
(2018年4月29日)
月: 2018年4月
【往還集142】8 「およげたいやきくん」
今さらなにをあほな、といわれそうなのでいわないできましたが、タイヤキを手にしたとき、頭から食べたらいいのか、尻尾から食べたらいいのか、ひどく迷うのです。
寒い日などは、焼きたての温かさがありがたい、アンコの味もおいしい。
けれど、頭から食べたのではかわいそう、尻尾から食べたのでは「イテテ!」と叫ばれそう。
どうにもこうにもならず、意を決して尻尾を切り取って食べるのが常です。
「およげたいやきくん」が大ヒットしたことがあります。私はあの歌詞がかわいそうでならなかった。
「まいにちまいにちぼくらはてっぱんの うえでやかれていやになっちゃうよ」
とはじまる。最後は
「やっぱりぼくはたいやきさ すこしこげあるたいやきさ おじさんつばをのみこんで ぼくをうまそにたべたのさ」
で終わる。
こんな残酷な歌がどうして大ヒットしたのか、なぜ子どもたちが歌いまくったのか不思議です。
(2018年4月28日)
【往還集142】7 ウサギ、おいしい
子どものとき祖父がウサギを飼っていました。
「みづまさ(通雅の方言読み)、ミツパ(クローバー)とってきてけろ」とたのまれ、フゴにいっぱいつめてきます。
それが餌です。
リンゴ箱を改造し、ワラを敷いた中に入れられた真っ白な子ウサギは、しだいに大きくなります。
それにともなって、こちらの情愛もつのります。
ところがある日姿を消す。
夕食になって「ウサギ汁だ、うめ(うまい)がら食ってみろ」といわれる。
肉はめったに口にできない貴重な栄養源。けれどつい昨日までの、真っ白な顔と真赤な目が思い浮かんで、どうしても食べられない。
そのうち学校で「兎追いしかの山」を習うようになりました。これが自分には
「ウサギ、おいしい」
としか聞こえない。なんと残酷な歌なんだ、なぜこんなのが名歌なんだと思いつづけてきました。
漢字まじりの歌詞として覚えるようになったのは、ずっとあとのことです。
(2018年4月28日)
【往還集142】6 道因入道のこと
「無名抄」は鴨長明の歌論書。
その1節「道因歌に志深事」は興味深い。
「この道に心ざし深かりしことは、道因入道並びなき者也。」
とはじまる。つまり、歌の道に志の深いことでは道因に並ぶ者がいないというのです。
ある歌合で、判者清輔が道因の歌を負けとした。
すると判者に対し、涙を流して恨み言をいった。
90歳(当時としては超高齢)になって耳も遠くなる。それでも会があれば参列し、講師のわきに「つぶとそひ居て」、つまりぴたりと寄り添って坐り、耳を傾ける。
亡きのちに千載集が編纂されたとき、18首収録される。
すると撰者俊成の夢のなかに出てきて涙を落として悦んだ。
俊成は「ことのほかにあはれがりて」、さらに2首加えたという。
手持ちの『新編国歌大観』で数え上げたら、たしかに20首ありました。
それにしても歌の道に、こんなにもひたむきな人がいたとは、いまの私などにはおどろきです。
(2018年4月27日)
【往還集142】5 パレード・続
夕方になってテレビを見ていたら別のパレードも放映されました。
スケートで金メダルを獲得した高木菜那・美帆姉妹です。
北海道の幕別町。
100万都市と2万7千の町では規模がちがう。
凱旋の車も普通車並の大きさ。
けれど2人が車から降りて沿道の人々と握手したり、子どもたちにメダルを触らせたりする場面は微笑ましいものでした。
以上のことと視点は少しちがいますが、スポーツへの熱狂ぶりを目の当りにしながら、ある危うさを感じることもあります。
もし芥川賞や直木賞を受賞したからといってパレードなどしたら、「なに、これ?!」の反応がせいぜいのところ。
文化領域と運動領域のはさまにあるのは、前者の内発性に対して後者の外発性。
スポーツは国家に利用される危険性をいつでもはらみ、戦争の凱旋行進とも形としては重なり合ってしまう。
集団規模の熱狂には立ち止まり、冷静さも取り戻しておきたい。
(2018年4月24日)
【往還集142】4 パレード
昨日の羽生結弦選手の凱旋パレードはすごかった。
とはいっても私はテレビ観覧していただけですが、10万8千人のどよめきは十分に想像できました。
仙台の中心街をオープンカーに乗ってゆっくりと進む。40分の間、笑顔を絶やさず手を振りつづける。
運営経費が約1億9千万円というのもおどろき。
私は5年まえ、たまたま用事があって街に出、楽天優勝のパレードを見たことがある。そのときはなまの星野監督も田中投手も見た。震災2年後でまだまだ傷だらけだっただけに、市民の熱狂ぶりは沸騰せんばかり。
今度はチームでなく羽生選手ただ1人。
もし体調を崩し寝込んでしまったらどうするのだろう、まさか代役出場というわけにもいくまいと、はらはらどきどきするところはあったのです。
けれど当日は元気いっぱいで車上に立ち、満面の笑顔を振りまいたのです。
好天のなかの新緑も、ことのほかの爽やかさでした。
(2018年4月24日)
【往還集142】3 両者の気息
まず作品を4首抽出してみます。
➀「なお人に残されているものとして木の間木の間を満たす秋の陽」
➁「羽化したての羽のごとくにすきとおる茗荷の花は濡れ土に浮く」
➂「盛りたつ草のふかみにつゆくさの花のひかりて青を放ちぬ」
➃「鹿の息雪のにおいに覚めたれど闇のおもくてまた目をつむる」
➀は周辺の山林に射す秋の陽を詠んでいます。その澄明さを「なお人に残されているもの」という。自然のなかに生活していなければこうは感受できない。
➁では茗荷の花に生のはじまりの初々しさ、危うさをとらえている。
➂もやはり植物の歌。つゆくさの青に見るのは、侵しがたいばかりの荘厳さ。
➃になると鹿と人間の境界はほんのわずかでしかない。
つまりこれらは分類としては自然詠だとしても、自然を対象化しているわけではない。
自然のなかに身を置き、両者の気息を重ね合わせているところに成立しているのです。
(2018年4月22日)
【往還集142】2 なみの亜子『「ロフ」と言うとき』(砂子屋書房)から
「路上」終幕―などと弱音を吐きましたが、トツトツならキーボードを押せます。
ゆっくりトツトツと打っていきます。
なみの亜子さんは西吉野の山深い地に住んでいた歌人。
現代風とちがう特異な世界があり、私はそれに関心を持ってきました。
第4歌集のタイトルもいきなり謎。後半にさしかかって
「杖の名はロフストランドクラッチという「ロフ」と言うとき息多く出る」
がある。これからとったことがわかります。夫が脊髄を傷め、杖と車いすを使うことになる。
ついに13年間の山家生活から夫の出身地岸和田へ移住するという背景を、歌集からうかがうことができます。
作品も、夫の受傷に関わるのが多く、それに加えて母親のアルツハイマー、山家生活の表情などが印象にのこります。
どれも捨てがたいテーマですが、ここでは地味な山家生活の歌に焦点を当ててみます。
(2018年4月21日)
【往還集142】1 人類未経験
冬の終り頃から右肩・腕に疼痛が。
整形外科へ。
レントゲンを撮れば頸椎が真直ぐでない。「頸椎変形性脊髄症ですね」と先生。
そうしているうちに指の第一関節も痛くなってきた。
ふたたび整形へ。
「これはパソコンをやるせいです。人類未経験の個所なのに急に使うようになったからダメージを受けたのです。私もほらEnterを押す指にサポーターをしています。」
なるほど、先生の指も痛そう。
というわけで、両手で操ってきた指にブレーキをかけ、トツトツとキーボードを押すことになりました。
けれど、人類未経験がなにやら興味深い。これまで使うことのなかった部分を酷使しはじめた、それに対応できないからトラブルを起こしたーー。
ということは世代交代をくり返すうちに、きっと指の強い人類が出現するはず。
とりあえず自分が回復しないときは、「路上」終幕も、もしかしたらそんなに遠いことではない。
(2018年4月20日)
【往還集141】30 完全なる者・続
つまり唯一の神のみを是とする。
この立場に身を置くなら他の宗教に対して排他的になり、唯一の神を掲げて争いに出てしまう。
現に出ている。
またパスカルは神の知恵の言として
「あなたがたは、今では、もはやわたしがあなたがたを作った時の状態にはいない。わたしは、きよく・罪なく・完全な者として人間を創造した。」
と記す。
そして堕落した人間たちに、悔い改めを求めている。
私の理解を越えるのはこういう個所です。完全な者として作ったのは神自身、それが堕落したということは失敗作だったということ。
それならばまず責を負うのは神のはずなのに、なぜ「失敗してしまった、ご免ご免」と謝らず、人間にだけ悔い改めを求めるのだろう。
普通の論理からしたら、神の悔い改めが先にあるはず。
もしかしたら信仰とは、こういうクレバスをひょいと飛び越えてしまうことかも。
立ち止まるのは、非信仰者だけかも。
(2018年4月14日)