世間の3・11への関心は、時間とともにどんどん衰退しています。7年もたつのだからそれはそれでよい、どんな事もいつかは忘れ去られていく。ただし、たまたま当事者だった人たちが、わが身のこととして反芻し、なにが問題だったのかを自問する時間はのこりつづけます。私でいえば、2010年にPAS検査を受けており、異常なし。それが3・11をはさんで急上昇。もちろんこれだけで因果関係は立証されませんが、同年代の人たちに会うと相当数が身心に異常を抱えていることがわかります。目下福島県の子どもたちは甲状腺がんの検査を継続している。避難に際しての死亡、疾病も問題になっている。が、3・11の問題はそこだけに留まるわけでない。重い被害を受けなかった人たちにも広く異変は出ている。私自身もそういうなかの一人。であるなら腰を据えて3・11を身自ら生きてみようと思っています。
(2017年12月31日)
月: 2017年12月
【往還集140】35 最後の書かも
今年の3月に歌集『連灯』と、評論集『宮柊二『山西省』論』をほぼ同時刊行しました。『連灯』は「短歌研究」に連載したのを中心にまとめ、3月に出す予定となっていました。『山西省論』も「路上」に連載していたのが完結したので、たまたま同時期に出すことになったのです。ところが私は前立腺がんPSAに引っかかり、1月からホルモン療法に入りました。時を同じくして2つのゲラが届いたので、場合によってはこれが最後の書になるかもと覚悟しながら校正を進めたのです。以来1年になろうとしてPSAの数値は下がり安定しつつありますが、生の時間に限度があることを自覚する機会ともなりました。最近は、もしまだ時間がのこされているなら、宮柊二論3部作として『小紺珠』論をやりたいと思いはじめています。けれど知力、体力がどれだけあるか、それが問題。「どうなんだい?」とわが身に打診中です。
(2017年12月31日)
【往還集140】34 ホントとウソ・続
『君の膵臓をたべたい』!なぜ胃とか心臓でなく膵臓なんだという「?」が渦巻く。タイトルにつられて買う。読みはじめたらやめられなくなった。高校で同じクラスの社交的で人気者の山内桜良、その逆の孤立型でネクラの志賀春樹。ひょんなきっかけから桜良が膵臓病で余命1年であることを知る。それ以来の凹凸のある交際。こういう設定は「愛と死を見つめて」の大ブームを通過したものにとって目新しいことではない。それなのに展開のウソッポさというか、劇画や劇場映画の台本っぽさというか、そういう展開にはまっていくではありませんか。そういえばーーと、私の思いはいきなり飛躍したのです。トランプ大統領のニュースをほとんど毎日見ていますが、もしかして映画「トランプ」を観覧しているのではないか、あの髪、あの目、あの手、あの口。ホントとウソの境界がもう消え失せてしまったのではないか。
(2017年12月31日)
【往還集140】33 ホントとウソ
今日は大晦日。この1年間で特に印象的だったことを話題にします。私は『短歌』1月号から半年間「歌壇時評」を担当することになり、あれこれの本や雑誌を読んでいます。興味深いことがつぎつぎに見つかるのですが「この件は「往還集」でなく「時評」へまわそう」などと考えることもあります。けれど「往還集」と『短歌』の読者層が重なり合うわけではない、仕分けなどしないで書いていいのではないか。で、まず住野よる『君の膵臓をたべたい』(双葉文庫)についてふれます。ふだんはジュニア小説にまったく疎い自分。作者
はもとより文庫部門で年間ベストセラー第1位だとも知らなかった。だのになぜ手にしたかといえば、松村正直歌集の『風のおとうと』を考えていたから。この歌集には食に関わる不可思議な歌が出てくる。それらを読み解くヒントになる本がないかなあと探していた目に、いきなりーー。
(2017年12月31日)
【往還集140】32 国家とは・続
私は日本人の両親のもとに生まれ、国籍も日本人。けれどいきなり国家の一員としての精神また義務を押し付けられはじめると、どうもついていけない。そもそも日本に生まれたのは自分の選択によることではない。それでも日本が好きかどうかと問われれば、これまでは好きと答えることができた。なんといっても憲法九条が誇り。もう戦争をしなくてよい殺されなくてよいと、安堵感を覚えたのです。ところが最近の動向は??だらけ。なりふしかまわず改憲へまっしぐらではありませんか。改憲派の人はよく「敵に攻められたらどうする」と詰め寄る。しかしそもそも敵を作らないのが九条。それでももし攻められたら、一定の防御はする。それでも相手が攻めこむなら、無抵抗を貫き犠牲死もいとわない。それが九条の態度であり、自分もそれを「よし
とするのです。このことを一度はきちんと表明しておきたかった。
(2017年12月19日)
【往還集140】31 国家とは
ヘーゲルの『歴史哲学講義』を読んでいることは、さきにも触れました。今頃になってヘーゲルを読むなんてといわれそうですが(事実私の読書力は昔から弱くてずっとずっと嘆いてきたのですが)、読み進めるにつれてその壮大な構想にはまりこんでいる昨今です。この書はベルリン大学の講義をもとにしたといいます。講義開始が1822年、日本でいえば1823年にシーボルトが長崎に来航、翌年にはイギリス船が来航という時代。だのにヘーゲルの視野は驚くばかりに広い。もっとも、処々に疑問がないわけではない。「歴史における理性とはなにか」の章に語られる国家観もそのひとつ。「国家とは、個人が共同の世界を知り、信じ、意思するかぎりで、自由を所有し享受するような現実の場です。」「人間のもつすべての価値と精神の現実性は、国家をとおしてしかあたえられない」ともある。この信頼に満ちた国家観!
(2017年12月19日)