同世代で政治に目覚めたものには、吉本隆明ファンがいっぱいいます。
私もその一人で、著作をどんどん買っては心酔しました。
それにブレーキのかかったのは、反核異論以来です。
さらに晩年の原発事故に対する発言にもついていけなくなりました。
科学の弊は科学が乗り越えるという思考の方向性がわからないわけではない。
が、もし吉本自身が被災圏の住人だったとしたなら、どう発言しただろうか。
吉本ならず科学力を信頼する人たちは、自身が生活の根を奪われても、同じ論理を展開しただろうか。
このことをずっと考えています。
論者のなかには3・11程度の災害は何度もあり、そのたびに克服して人類はここまで来たと考えている人もいる。
そういうマクロの視線とミクロの視線は、交叉する可能性があるのか、離反するだけなのか。
そのことを考えつづけていますが、我ながらいまだ納得できる解を手にしていない。
(2017年3月7日)