【往還集138】38 「われ許されず」・続

人間は他の命を殺(あや)め口にする。
昆虫も同じく他の命を食し、生きながらえる。
この点で両者とも同類。
だから昆虫の除去は許される。
それならば植物はどうか。
例外的に食虫植物はあるにしても、ほとんどは他の生命を殺めたりしない。しかも剪り払われるとき、ひとことも痛みの声を発しない。
そういう植物を始末する自分が許されてはならないと、築地正子は詠っているのです。 
同じような植物観は、

「植物といへども目も耳ももつならむ南に向きて百合開くとき」

「道の辺に踏まれても踏まれても花ささぐる蒲公英も夜は星と語らむ」

などにも見られます。
さらに歌集後半には

「地球時間をまさに生きゐる草木の統べゐる森に人も随ふ」

もある。
いかにも、地球時間からするなら、人類や動物よりも先に生を育んだのは、草木にほかならない。
築地は長い間農耕に身をあずけながら、地球規模のことを触感していたのです。
(2017年3月30日)

【往還集138】37 「われ許されず」

築地正子は1920年生まれの歌人。
東京に育ちますが、26歳のとき父母と共に、父の生家熊本県玉名郡六栄村に移住、耕作しながら82歳まで過ごします。
年齢を重ねるにつれて単独生活が無理になり、姉の住む西東京へ移住。
86歳で亡くなります。
この間「心の花」の歌人として作歌します。佐佐木幸綱が解説文の題を「孤高の歌人」(『築地正子全歌集』砂子屋書房)というように、世俗にこびることのない風格が一貫してありました。
私はそこに魅かれてきた隠れファンです。さて、『自分さがし』に

「剪られても痛みは言はぬ植物のやさしさならばわれ許されず」

に出会ったときには、どきっとしました。
次に並ぶ作品は

「いのち生くるこの地の上の対等の生物なれば昆虫(むし)をしひたぐ」

です。
築地は農耕者ですから作物を荒らす虫は除去しなければなりませんが、その根拠は「この地の上の対等の生物」にある。
(2017年3月30日)

【往還集138】36 スクーリングの日・続

そんな状態でしたから、日曜日ぐらいはゆっくりしたい。スクーリング担当は、負担このうえなかったのです。
けれど月1回集まってくる人々は、学校という所、教室という所に来ただけで、とても楽しそうなのです。
さまざまな家庭の事情で進学できなかった仲間と、顔を合わせ、時間を過ごすだけなのに。
ふだんの、全日制の生徒たちとはまるでちがう雰囲気でした。
あるとき、30歳も越えようとする人が、「先生、やっと免状がきました」と広げてみせてくれました。
卒業認定書です。
皆は拍手を惜しみません。
もちろん、こちらも一気に清々しい気持ちになりました。
自分はさいわいにも、高校へも大学へも進学できた。
けれど中学を終えるのもやっとの人はいっぱいいた。
そういう人たちに手助けできることがあるなら、休日返上など取るに足りぬと思いながらも、十分なことはできなかった。
その悔いが今ものこっています。
(2017年3月26日)

【往還集138】35 スクーリングの日

1960年代は、辺地はまだまだ貧しかった。
自分の同級生でも、3分の1は高校へ進学できなかった。
そんな時代に教師となって若柳高校に赴任したのですが、そこは全日制だけでなく通信制のスクーリングも引き受けていました。
月1回の日曜日に地域の受講生が集まります。進学できずに農業を継いだ人、結婚して赤ん坊を負んぶした人、年長になってやっと勉強できるようになった人などさまざまです。
スクーリングの講師としてほぼ強制的に割り当てられるのは、新米教師です。
私もその一人。授業をするわけでなく、一人一人が持ってきた好みの教科を自習する、あるいは仲間と相談したり、こちらの専門教科のときは質問に来てくれたりする。
それだけのことでしたが新米教師は、校務・授業・部活動・クラスの生徒の世話だけでもてんてこまい。
おまけに宿直制度もあって、とかく新米に押し付けられるのでした。
(2017年3月26日)

【往還集138】34 耳を澄ますこと

「うた新聞」にコラム「遠近画法」があります。
2017年3月号は音楽家の古沢健太郎氏の「ある種の難聴」。
音楽家とは思えない(失礼!)きちんとした文章で、しかも内容も深い。
古沢氏はまず、鳥・犬・コウモリ・クジラなどは自分らに聴きとれない低い周波数でコミュニケーションをとっている、それに対してこちらは「耳が悪い」といいます。
しかしそれが欠点ではない、作曲とは聴こえないものに耳を澄ますことであり、「存在」に耳を傾けようとすることだと。

「存在の気配の只中にありながらそれがうまく聴こえない、聴き取れないからこそ私たちはそこに耳を澄まし、音楽を聴き出そうとしている。」

いいことをいっているなあと、私は炎暑のさなかにシャワーを浴びたような爽快さを覚えます。
聴きとれない存在に耳を傾け、音を得るか、ことばを得るか、音楽と文学の共通点と分岐点はそれなのだと思ったのです。
(2017年3月21日)

【往還集138】33 吉本隆明・続

「家族に困ったことがあったからって、楽しいことをやめるという考えはあまりよくない。そういうときはやったほうがいい。もしも、これが伴侶のことだったりしたらそりゃあ違うけれど、君の場合は君が子どもなんだし、お母さんが悪性である可能性はとても低いらしいから、今はそんなこと考える必要はない。」

私はこういう吉本の考え方には共鳴するのです。
自粛ということばがある。
昭和天皇の危篤時、崩御時のしばらくは、全国的に自粛を強いられた。あれはいやだった。
たとえこちらがひどい状態になっても、楽しめる人は大いに楽しんでほしいと私は思っている。
こういう人間観・生活観のほうが、なにか自然であり、しぶとさも与えるのではないか。 
大震災で痛めつけられていた日々、人里を離れては近くの湖へ行き、コブシの花を愛でた。
〈ふつう〉が、まぎれもなくある、それだけのことがとてもうれしかった。
(2017年3月17日)

【往還集138】32 吉本隆明

吉本隆明について、また書きます。
彼の論考に魅せられたのは学生時代からで、随分恩恵も受けてきました。短歌と宮沢賢治の分野でも同じこと。
それだけに原発に関する発言は、渦中にあるものとしては手痛かった。
最近吉本隆明全集が刊行されはじめた。今までになく立派なものです。
だのに購入する気になれない。
オマエってなんて了見の狭いヤツだと自分を責めたのですが。
もっとも彼の人間観、生活観には今でも信頼できるところがあります。
よしもとばなな『すばらしい日々』(幻冬舎)は吉本死後に刊行された随想集です。
そのなかの「テニスの教え」に、母親のただならぬ病気を知ったときのことが書かれています。
学生の日に友人に誘われてテニス教室に入ることになった。そのときに病気がわかる。これでは経済的にも大変だろうからテニス習うのやめようかと父親にいったらきっぱりしたことばが返ってきた。
(2017年3月17日)

【往還集138】31 「感性の森」

盛岡に行った折岩泉家具店をのぞきました。天然木を使った数々の製品。その肌触りと木目の美しさ。まるで文明に疲弊した人間を慰撫してくれるかのよう。
だが値が高い。
けれど欲しい。
数年迷ったあげくとうとう机を買い求め、今でも愛用しています。
ところで、家の近くに「感性の森」という子ども用の施設ができました。
館内全てが磨きあげられた木材で、滑り台や積み木、そして30万個の木玉による湖もあるのです。
素足になった子どもたちはたちまち夢中になり、ありったけの声をあげて走り回る。ちょうど東京の孫2歳と4歳が泊まりにきたので、保護者を兼ねて私も入場。
そうしたら、木の感触と木の香りが、体内に眠っていたエネルギーを呼び覚ましてくれました。
いっぱいの子どもたちは、それこそ自然児に帰って、存分に遊びまくります。
これぞ、木の力、木の魅力。
木は人間を、自然の日に戻してくれる。
(2017年3月16日)

【往還集138】30 マクロとミクロ

同世代で政治に目覚めたものには、吉本隆明ファンがいっぱいいます。
私もその一人で、著作をどんどん買っては心酔しました。
それにブレーキのかかったのは、反核異論以来です。
さらに晩年の原発事故に対する発言にもついていけなくなりました。
科学の弊は科学が乗り越えるという思考の方向性がわからないわけではない。
が、もし吉本自身が被災圏の住人だったとしたなら、どう発言しただろうか。
吉本ならず科学力を信頼する人たちは、自身が生活の根を奪われても、同じ論理を展開しただろうか。
このことをずっと考えています。
論者のなかには3・11程度の災害は何度もあり、そのたびに克服して人類はここまで来たと考えている人もいる。
そういうマクロの視線とミクロの視線は、交叉する可能性があるのか、離反するだけなのか。
そのことを考えつづけていますが、我ながらいまだ納得できる解を手にしていない。
(2017年3月7日)

【往還集138】29 高木市之助・続

花巻を拠点とする宮沢賢治学会で、賢治短歌の連続講座をやったことがあります。
私はコーディネーター役でしたから、これまでの評価史を説明しました。
高木市之助のいち早い評価についても紹介しました。
質疑の時間になったとき、原子朗氏が立ち上がり「高木市之助はもっと評価すべき人だ」と援護の弁を発してくれました。
さて、それにしてもまずは積みっぱなしの『国文学五十年』を、まず読まねば。
何だか固そうな題。
ところが先入観に反して、とても岩波新書とは思えないほどの柔らかい本でした。
というのも79歳の地点からの回想を、口述筆記する形にしているからです。
このなかでビビッと反応した1点をあげておきます。

「国文学という学問がこんなに創作的な才能から離れてもいいのか」

「教壇で注釈していれば先生も勤まるし、入試の参考書も結構「著述」していける。しかし「注釈」は実は創作の敵です。」
(2017年3月7日)