【往還集138】3 「撃つな。私は日本人だ」

渡辺幸一氏はイギリス在住の歌人で、同人誌「世界樹」を出しています。
35号の「講演草稿・イギリスで日本の憲法を考える」は、多くの人に読んでほしいエッセイです。
26年間海外に滞在している目で日本をとらえている。
ORBインターナショナルという国際的な調査機関のアンケートによると、「世界で最も信頼できる国はどこか」は第1が日本だった、しかしこの2年でイメージは悪化したと指摘している。
安倍政権になってからの変貌ぶりを中東やアジアの人々はしっかり見ている。
昨年7月、ダッカで日本人7人を含む20人もの人質がテロ事件に遭遇した。これまでなら「撃つな。私は日本人だ」ということが歯止めになった。だのに相手が日本人だとわかっていて殺害された。9条解釈を捻じ曲げた、武器輸出三原則を捨て去った、イスラエルと接近しはじめた、これら動向が背景にあると渡辺氏は語っています。
(2017年1月11日)

【往還集138】2 ゾゾについて

ゾゾとはなにか。
ゾゾは実在しない、けれど実在する。
ゾゾには大きな翼がある、けれどネコぐらいともいえる。
目のまえに現れ、話しかけたり、守ったりしてくれる。
こういうゾゾの登場するのは、岩瀬成子作『マルの背中』(講談社)の世界。
主人公は亜澄(あずみ)。弟に理央(りお)がいる。
父母は離婚し、亜澄は母と暮らしている。

「理央はゾゾのことをよく口にした。ゾゾは大きな翼を持ってる、と言ったこともあった。猫を指差してゾゾみたい、と言ったこともあった。」

こういうゾゾを、子どものころ密かに持ったことありませんか。
私はあります。なんと名づけたか忘れてしまいましたが、たしかに。
岩瀬作品は、最初期からのほとんどを読んできましたが、いつでも

「リアルなまなざし+α」

を感じさせます。
機会あればどうか岩瀬作品を読んでみてください。この分野の最達成点を目の当りにできること、受け合います。
(2017年1月7日)

【往還集138】1 笑い飛ばしてください。

「往還集」を連載しはじめたのは2003年8月発行の96号からでした。
それ以前にも「つぶて通信」を掲載していたのですが、いつしか1章を400字に限定して書くことをはじめました。
紙媒体だけでなくブログとしても発信して、今日にいたっています。
それにしても長い間、折にふれて書いているうちに「この話題、まえにもとりあげたのでは?」とわれながら怪しくなることが出てきました。年齢と共に脳の老化もさけがたい。 
先日などは、宮城県産の銘酒について某誌に書く必要が出てきたのですが、名がどうしても浮かんでこない。
「ほら一番うまくて値段も高くて海の町の産だよ」と自分を叱咤するのにどうしても出てこない。
というようなわけで、「往還集」も同じ話題がくり返されるかもしれません。
そのときはどうか、「いよいよボケてきたか」と笑い飛ばしてください。
(なお銘酒の名は「浦霞」でした)
(2017年1月6日)

【往還集137】50 海軍の叔父

私の記憶は2歳半にはじまる。
年齢を特定できる動かしがたい〈証拠〉があるのです。
父親の弟に四郎叔父がいました。
海軍に召集されたのち、軍人募集の命を受けて釜石まで出張。
その帰途、花巻近くの駅似内(にたない)で空襲警報が出る。
軍人たる自分は民間人の全員退避を見届けなければならない、
退避終了、
降りよう
としたとたん、直撃を受けて即死。
終戦3日まえのこと。
これら経緯は後になって聞いたこと。
そんなこととも知らず、母親と手をつないでカラタチの垣根沿いを歩き、寺に入りました。
海軍姿の叔父の写真。
読経にあきあきしたころ、いきなりジャーンと大音響。
驚きのあまり泣き出す自分。
本堂の外へ連れ出す母親。
今でも葬儀の最中に、ジャーンが鳴るとドキッとします。
終戦後、見知らぬ女性が訪ねてきました。

「四郎は亡ぐなりすた」

と告げると、ハンカチを目に当てて、帰っていったそうです。
(2017年1月4日)

【往還集140】39 1粒の砂以下

新年所感として、人類の価値などと大それたことを口にしたばかりですが、他面では以下のようなことも考えています。世界には核廃絶を訴え運動しつづけている人たちがいる。アフガンの地に根を下し、地道に活動しているペシャワールの会もある。もっと焦点を絞って身辺を見ても、雨の日も風の日も新聞配達してくれている人がいる。早朝の町内を一巡りしながらゴミ拾いしている人もいる。その他、目に見えないところで善のことを〈善〉としてでなくふつうのこととしてやっている人は、いっぱいいる。それなのに「人類の価値ありやなしや
などと、具体を一気に脱落させ、抽象に走る議論に出てもいいのだろうか。正直なところ、これが私の矛盾です。全宇宙で地球は1粒の砂以下でしかない、だのに人間があくせくと生きるのにどういう意味はあるのかにとらわれたのは高校生の日。あれと裏返しの矛盾というべきかも。
(2018年1月3日)

【往還集137】49 歌会始・続

私は歌会始の選者要請を受けたことはないし、陪聴者に推薦されたこともないという、ごくフリーな立場です。
テレビでの放映は何度か見ています。その第一印象は、会場の皆さん終始威儀を正している、皇族の方々はほとんど不動、黒目だけが動いているというものです。
緊張するとすぐに尿意を覚える自分には、こういう任はとても耐えがたい。
それはともあれ今井恵子さんははじめてゆえの観察を、つぎつぎに披露している。
式場への呼び出しは年長者から年少者の順。

「声を契機に、土俵の下から土俵の上へ、つまり、日常から非日常の儀式へと参集者の意識がかわる。」

「人は肩書、つまり社会的地位や役割としてそこにいるのだと思わせられる。」

「わたしは、ふっと自分の顔を何処かにあずけ、輪郭になったような気がした。」

これらの自己観察・人間観察がじつに冴えている。
「この項続」とありますから、次号も楽しみです。
(2017年1月3日)

【往還集137】48 歌会始

短歌をやっていてなんともかんともさっぱりしないのは、宮中歌会始の問題が出たときです。
天皇制国家を補填していると真向から難じる作家がいる一方では、全国規模短歌コンクールの最大規模であるにすぎないと、過剰な意味づけを払いのける歌人もいます。
しかしたいていの歌人は、入選者を過度に持ち上げるマスコミに苦い思いをしながらも、実態がわからない。
これ以上は「立入禁止」の気になって遠ざけている。
そのくせ陰では、あの人は選者の要請を断った、主宰が断ったから弟子も受けるわけにはいかないなどと〈ここだけの話〉に興じる。 
私は、是非を論ずるまえに実態をまず公開してほしいと願ってきました。
それをかなえられそうなエッセイがやっと出てきたのです。
今井恵子「短歌渉猟1 宮中歌会始」(「短歌研究」2017年1月号)です。
今井さんははじめての陪聴体験をごく客観的に記しています。
(2017年1月3日)

【往還集137】47 1月2日

今日は、2017年1月2日。
私の誕生日です。
2日であることはとかく注目からはずれる。大晦日は紅白を聞き、除夜の鐘が鳴る頃にやっと床について翌日は寝坊。元旦は元朝参り。 
これが子ども時代からの習いでした。
その翌日に誕生日の者がいるなどは忘れ去られている。
「今日、オレの誕生日だよ」とでもいわないかぎり気付いてくれなかったものです。
なにはさておき74歳を迎えました。
この年齢はとうに働き盛りからは弾け飛ばされていますが、世間で話題になるほどの超高齢でもない。
しかし人知れず、新しい境地を抱くときでもあります。
若い日にはこれからの時間が無限大と感じられた。
けれど今は生の時間に限定があることが実感される。
これはすべての生き物の自然法則。
これからはこれまで〈敵〉だった病とも〈共生〉し、死へも徐々に手をのべていこう。
この心境、私にとって新しい出発点です。
(2017年1月2日)

【往還集140】36 人類の発展

最近読んだ座談会で1番興味を覚えたのは「人工知能は短歌を詠むか」(『短歌年鑑』平成30年版)です。参加者は小島ゆかり、坂井修一、森井マスミ、永田紅、中島裕介の5人。そのなかで坂井はSF作家アシモフの考えを紹介しています。私はアシモフを読んだことがないので、紹介をもとにいえるだけですが、地球が原子力で汚染されたとき地球にこだわっていては人類の発展がない、地球の外へ移る以外ないとロボットが計算するーーというのです。核に汚染されて人類は亡びるというのは、つい先日まではSF世界のことでした。しかし福島原発事故以来、単なる空想ではすまないと考えるようになりました。1回の事故で広大な地域に放射能は飛散し、多くの人に危害を及ぼす。そればかりか核のゴミを無害化するには10万年単位の歳月を要する。3・11をきっかけに露呈したのはそういう大問題です。
(2018年1月1日)