【往還集137】36 検閲

2016年12月17日
1945年日本敗戦。アメリカ軍本土上陸、そして占領政策。
出版物の検閲もそのなかのひとつ。
軍国主義を解体し民主化する目的だから検閲の痕跡があってはならない。削除個所は伏せる。全文没収もある。
『山西省』も没収本。
これに関連して他の短詩型文学分野の検閲例も調べました。短歌には独得な表現がありますからその道を知っていなければ○?の判断は難しい。
検閲官には明らかにその道の人が入っていた。
やがて占領軍は引き揚げ、〈独立国家〉になったのですから、検閲に携わった人たちの証言を聞きたい。
断罪が目的でなく、歴史的証言として。
ところが私の知るかぎり、「自分も担当しました」と、名乗りをあげる人がいない。したがって具体的にどのような手順で作業し、どのような基準で合否を決めたのかがわからない。
この徹底した無言ぶりを、今日にいたるまで、むしろ痛々しいことだと思ってきました。

【往還集137】35 泥舟

2016年12月14日
「保育園落ちた日本死ね!!!何なんだよ日本。一億総活躍社会じゃねえかよ。昨日見事に保育園落ちたわ。」

この匿名ブログの率直な口吻が評判を呼びました。
私もまた共鳴を覚えた一人ですが、こういう口汚さは、ほどなく時間の流れのなかで腐食してしまう。
それになによりも「この世で一番の不幸を負っている
という〈自己中〉から抜け出していない。
近刊の佐藤良子歌集『Midnight Sun』に、こんな歌を見つけました。

「泥舟をいつ降りようと勝手だが船は揺らすな みんな沈むぞ」

この泥舟とは何か、具体的に示しているわけではないのですが、仮に「日本」としてみます。
我が国はいかにも泥舟状態。
けれどなお踏ん張っているひとも、抵抗しているひともいる。
そこまで目が届かずに自分の憂慮だけで揺さぶったなら、すべてを巻きこんで沈没させてしまう。
「それはダメ」と戒めている歌では?

【往還集137】34 自主避難の子

2016年12月14日
福島から自主避難した子たちが新しい学校でいじめられていた、そればかりか「補償金もらってるだろ」とたかられていたという報道は私をひどく悲しませます。
予想外だったからではなく予想しており、すでに噂としても届いていたから。
子どもたちばかりではない、縁談があっても「福島の人」というだけでうまくいかないケースが出ている。
縁談ばかりではない、熊本地震の見舞いに農産物を持って行ったら「福島産」というだけで拒まれた。
農産物ばかりではないーーと、話はつぎつぎに連鎖していきます。
あまりにも理不尽な対応の数々に「ふざけんな、こんな国、死んじまえ!」とカッカとなったところで我に返ったのです。
理不尽のひとつひとつは可能な限り記録し、後世に残していきたい。
しかし同時に、いっぱいの崇高さが生まれていることにも、目を曇らせたくはない。
そういう心境に最近なってきました。

【往還集137】33 「ヒアレイン」

2016年12月12日
これはほとんどどうでもいい話なので、何の期待もしませんように。
歯科医に行って待合室にいました。
自分のまえに二人の先客が。見るからに90過ぎのご夫婦のよう。
その奥さんのほうが手提げ袋をもそもそ探っていましたが、やっと見つけたらしく取り出しました。
水色模様の、小さな目薬。
顔を上げて、最初に左、つぎに右へ注していきます。
「ヒアレイン」
だとすぐにわかりました。私もドライアイになりやすいので、カバンに入れて持ち歩いています。
加齢とともに体内の泉は枯れはじめ、目も乾燥してひりひり痛んでくる。そういうときに雫として送りこむのです。
ところで私も待合室の温かさにひりついてきた。治療に入るまえに注しておこうと「ヒアレイン」を取り出しました。
その奥さん、ちらっと見て、そっと笑んだのです。

「あらまあ、おんなじ仲間がいるわ」

と思ったにちがいありません。
この話はこれだけ。

【往還集137】32 コメの石

2016年12月8日
古泉千樫の全歌集を読み進めていたら、「寒夜」の章に、

「夜寒く帰りて来ればわが妻ら焚かむ米の石ひろひ居り」
「みづからが拾ひ分けたるコメの石かずをかぞへてわが児は誇る」

に出会いました。
「コメの石ってなに?」と疑問を抱く人もいるかもしれません。
けれどこれは米に混じっている、まぎれもない粒石のことです。
今なら米袋から一粒出てきただけで、大騒ぎになる。
なにしろ現在の精米機はきわめて精巧、米袋へおさまる過程で、ほとんどの不純物を選り分けてしまいます。
しかしその技術がまだ生れない時代はちがいます。
人力に頼らざるをえませんから、黒くなった米粒はもとより、粒石まで入りこんでしまう。
それを拾い出すのが主婦や子どもたちの日課ですらありました。
「明日焚かむ米の石ひろひ居り」今読むと、なんだか切なくなってきますが、食と人間が密接であった時代の、一風景でもあったのです。

【往還集137】31 食のゲーム化

2016年12月7日
カジノ法案が可決されました。
金のためには犠牲者などそっちのけにするこの感覚。
人の道のあまりなる劣化に、憤然たる思いを隠せないでいるのですが、カジノ法案と同じように嫌悪感を覚えつづけてきたのは、食のゲームです。
先日とうとうご飯の早食い競争で犠牲者が出てしまいました。
世界を見渡せば飢餓に苦しんでいる国がいくつもある。
だのに食べ物をゲームにするとはなにごとかと、私はかねてから腹を立て、夏の流しソーメンにすら拒否感を表明してきました。
もし上のほうにいるものが、ペッと唾を吐いたらどうする?お年寄りが入れ歯を落したらどうする?
想像しただけでゾッとするではありませんか。
このような食イベントが全国のあちこちで開催され、悪いことにマスコミも地域起こしだとばかりにおもしろおかしく報道する。
汗水たらして農を営む人なら、食を遊びにするなんてけっして発想しない。

【往還集137】30 俳句の日

2016年12月6日
月々いただく句誌に『小熊座』があります。ふだん俳句に親しむことがないので、これは勉強のチャンス。
「575」
と「57577」
は、形としてはかなり似ているのに、どうしてこんなにもちがうのだろうと、毎月問題提起された気持ちになります。
いつのころからか「よし『小熊座』の届いた日は俳句の日にしよう」と決め、実際に作ることをはじめました。
けれど、どうも句にならない、どこかで歌を引きずっている。
その実例を恥ずかしながら、並べておきます。

「甘柿を残して人は遠ざかる」
「筆竜胆忘れしことも新しく」
「縄跳びや人の魂出で入りす」
「雪のうへに雪降り雪を消し去りぬ」
「鏡の裏に、鏡の裏あり」
「牡丹雪選ばんとして舌迷ふ」
「億万の雪の一粒選ばれて」
「死の人を上ぐる釣瓶や朝桜」
「狂ひ風ありて桜の剥落す」
「戦友が夏の季語とは知らなんだ」(鈴木六林男に「夏の季語らし「戦友」の二人減る」による)

【往還集137】29 茂吉の実兄のこと

2016年12月2日
田中綾氏が「短歌往来」12月号に「聴診器もて父われは聴く」を書いています。
斎藤茂吉の実兄守谷富太郎のことです。守谷は北海道に渡り拓殖医になります。その詳しいことを知らずにきましたが、田中氏の論でかなりのことがわかり、しかも哀切な思いも湧いてきました。
富太郎が44歳のとき、一人娘富子が誕生、21歳のとき北見の大橋家に嫁がせます。
ところが結婚して2か月後に急性肺炎になり、亡くなってしまう。
父親自身が看病してもかなわなかったというのです。
富太郎もまた歌を作る人。

「逝ける子の形見とここにいささかの着物を貰ひ寂しく帰る」
「かそけくも消えゆく脈に手ふれつつし子の臨終見守りにけり」
「けくも消えゆく吾子の心音を聴診器もて父われは聴く」

このような歌が「アララギ」に残っているというのです。
自分が医師ゆえのあまりにも大きな悲しみが、ひしひしと伝わってきます。

【往還集137】28 引用ということ

2016年11月26日
「路上」に連載していた「宮柊二『山西省』論」をやっと書き終え、出版社へ送りました。ゲラが届き、校正している最中です。
資料からの引用文も多いので、全てを原典に当るという作業もあります。
そのとき、閃いたことが。
早暁の書写は、親鸞『教行信証』。つぎつぎと出てくる引用文に「なんだこれ?」と思うことからはじまりました。あちこちの経典からつごうのいい個所を借りてきた、パクリじゃないかと。
ところが自分自身が引用文を点検しているうちに、一冊の精髄をつかむことなしにはできないと気づきました。
親鸞は山のような経典を読み、精髄がどこにあるかをとらえた、その部分をこそ引用しているのであって、けっして自分につごうのいいように構成しているわけではない、パクリなどではないとはじめて気づいたというわけなのです。
遅まきながら、『教行信証』の門をやっとくぐることができた気分です。

【往還集137】27 司書

2016年11月25日
何の脈絡もなく高校時代の一シーンが浮かんできました。
水沢図書館に学友とよく行きました。
そこに若く美しい司書が配置されてきて、たちまち噂が広まりました。
しかもその人がクラス担任のフィアンセだというではありませんか。
こちらは興味津々、いよいよ図書館通いを重ねました。
とうとう結婚式前日。クラスのメンバーが大挙して図書館へ(ちなみに男子だけのクラス)。
玄関に整列し、司書の方を呼んでもらいました。
何事かと出てきたその方、目をまん丸くして立ち尽くす。
すかさずブラバンのトランぺッターが結婚行進曲を吹奏。
真赤に染まる頬。
吹奏が終わったところで、代表が花束を贈呈。
この件はもちろん担任にも秘密。
後日、新宅へ引越しするというので、仲間と手伝いに。

「あのときは、ほんとに恥ずかしくて、心臓が止まりそうだったわ」

といわれました。
こちらにとっては美しく懐かしい思い出です。