【往還集137】18 悲劇のイメージ

2016年10月28日
大川小学校の悲劇をマスコミを通じて知る人は、学校単独のイメージを持つにちがいありません。
しかし当日、この一帯の地区の避難所が学校でしたから、多くの住民が集まっていました。
数年で転勤する教員とちがい、住民のほうに土地勘があるのは当然です。
どうしたものかと、教員のひとりが住人に尋ねたという情報があります。
しかし津波が来るはずがないと信じている人々はだれ一人山へ逃げず、8割に当る200数名が犠牲者になりました。
現在、児童・教師と住民の碑名がほぼ300刻まれています。
ということは大川小学校の悲劇は釜谷地区の犠牲の一部。地区も学校も津波襲来を誰も予測できなかった。
もし住民のうちの一人でも裏山へ駈け上ったとしたなら、学校も見倣ったにちがいありません。
このことをマスコミは前面に出して伝えることなく、そのため大川小単独のイメージとなっていきました。