【往還集137】19 むなしさが

2016年10月28日
法的なことをいえば学校と教師の管理責任は免れない。
しかしそれは「学校・先生を断罪!!」とは違うのではないか。
この違和感は訴訟に加わった遺族のなかにもあるでしょう。
責任を問うことができるとしても、事態の不可抗力は身を以てわかるからです。
私は共に犠牲になった先生の情報にも接しましたが、一人として〈悪人〉はいませんでした。
ただ悔しいことに津波体験がない、こんなことになるとはだれ一人想定できなかった。 
想定できないこと自体が罪だとするなら、問題点はいくつでも出て来ます。
地区住民が一人も避難の提案をしなかったのはなぜ?
広報車が近くを通りながら学校に立ち寄ってくれなかったのはなぜ?
子どもを迎えに行き助かった例があるなかで多くの親が行けなかったのはなぜ?
その他、諸々。
けれどどんなに「???」を蒸し返しても今になってはむなしさがこみ上げるばかりです。

【往還集137】18 悲劇のイメージ

2016年10月28日
大川小学校の悲劇をマスコミを通じて知る人は、学校単独のイメージを持つにちがいありません。
しかし当日、この一帯の地区の避難所が学校でしたから、多くの住民が集まっていました。
数年で転勤する教員とちがい、住民のほうに土地勘があるのは当然です。
どうしたものかと、教員のひとりが住人に尋ねたという情報があります。
しかし津波が来るはずがないと信じている人々はだれ一人山へ逃げず、8割に当る200数名が犠牲者になりました。
現在、児童・教師と住民の碑名がほぼ300刻まれています。
ということは大川小学校の悲劇は釜谷地区の犠牲の一部。地区も学校も津波襲来を誰も予測できなかった。
もし住民のうちの一人でも裏山へ駈け上ったとしたなら、学校も見倣ったにちがいありません。
このことをマスコミは前面に出して伝えることなく、そのため大川小単独のイメージとなっていきました。

【往還集137】18 ナイーブな問題

2016年10月27日
同じ県に住むものとして、元教師として、物書きのはしくれとして、この悲劇はとうてい見過ごすことができない、問題点を洗いざらい検証して後世に残す義務もあると思い立ちました。
震災後の不調を抱えながら大川へ足を運びはじめたのもそのためです。
同時に、いくつもの情報に接するようになりました。
最初私の想定した切り口は、学校悪の観点、すなわち学校・教師の管理責任です。
学校問題を考えるときこれが一番わかりやすく、訴訟を起こすときも「被害者生徒
対「加害者学校
の構造を基本としてきました。 
今回の問題もこの観点を避けることはできないと、私は想定していました。
しかしいろいろな情報に接するうちに、学校責任を前提とした報道からも、訴訟言語からも洩れてしまう問題、最当事者ともいうべき人が今もってことばにすることのできない、ナイーブな問題があることに気づいていきました。

【往還集137】16 なぜ

2016年10月27日
3・11の夜、こちらも被災者で、情報手段はラジオに限られていましたから、震災の全体像は全く見えていませんでした。
「荒浜で200~300の遺体」のアナウンサーの一言で、はじめて「とんでもないことが今まさに起きたのだ」と気づいたのです。 
大川小学校の情報はさらに遅れました。児童74名教師10名が犠牲になったと知ったときは、胸のつぶれる思いでした。
私は牡鹿半島のを訪ねたことがあります。
その途中見かけた校舎の印象が忘れられません。
こんな地方なのになんとモダンな校舎なのだろう!
(あとで知ったことですが校歌の作詞者も知人でした。)
そこの子どもたちが一気に壊滅状態になったというのですから、文字通り張裂ける思い。 
校舎のすぐ裏は山だというのに、なぜ教師たちはそこに誘導できなかったのだ、なぜ生命を守ってやれなかったのだと、憤りさえさえ湧きあがってきました。

【往還集137】15 「学校・先生を断罪!!」

2016年10月27日
昨日、仙台地裁で大川小学校訴訟の判決がありました。
午後3時、テレビを注目していると、報道陣のまえへ駈けつけた人が

「勝訴 子供たちの声が届いた!!」
2016年10月27日
の横断幕を広げました。
子どもたちの無念もこれで少しは晴れると、ほっとした思いになりました。
ところがもう一人が

「学校・先生を断罪!! 歴史を刻み未来をひらく判決」

を掲げたとき「???」の違和感が生じたのです。
これでは子どもたちの心とかけ離れているのではないか。
訴訟であるかぎり、勝ち負けは決めなければならない、賠償法を適用させるためにも相手の過失をはっきりと明記しなければならない。
つまり先生たちを「ワルモノ」と指定し、「学校・先生を断罪!!」と明言しなければーー。
けれどこの司法言語、なんと情けようしゃなく、冷たいことか、これではなによりも、子どもたちが「???」と首を傾げているのではないでしょうか。

【往還集137】14 「男性カットします」

2016年10月24日
通りを歩いていて、

「男性カットします」

の看板が目に入ったときは、「エッ!」と声をあげそうになりました。
そこが美容院だとわかり胸を撫で下ろしたのですが、いきなり小さい日のことが浮かんできたのです。
いうことをきかずにわめいていると、母親が「チンコ切るよ」と脅かす、「やだ、やだ」といって必死で股間を隠すのです。
女の子にチンコがないと知ったときには、悪いことをして切られてしまったのだと思い込んでいました。
高校生になり世界史を習ったとき、中国の宦官についていやに詳しく話す先生がいました。
こんなひどいことがなぜ行われたのだろうと、底深い闇をのぞく思いでした。
さらに時がたって宦官について調べたとき、家族のために自ら「男性」を処分し、時々家に帰っては妻と娘と睦まじく過ごしたという話を知りました。
「男性カットします」から、そんなあれこれを思い浮かべたのでした。

【往還集137】13 高齢だから見えるもの

2016年10月23日
高齢者があがめられたのは、きんさん・ぎんさんが頂点だったのではないでしょうか。 
以後100歳超が続出し、あがめられるどころかやっかい扱いされつつあります。
年々高齢の仲間に近づく自分も、なんだか肩身が狭い。
けれど歳を重ねないと見えてこないものもある。
親鸞といえば鎌倉時代に出現した名僧ですが、90歳まで生きました。現在に換算すれば100歳超。
この点について野間宏が、目の覚めるようなことを書いてくれている(『親鸞』岩波新書)。 
親鸞の思考の達成は、

「九十歳という長い生涯のなかで歴史の真実をその体験を媒介として手に入れ、いかに多くの知識人が歴史の進行を見誤り、つぎつぎと自己破産をとげていくかを見とどけたからでもあろうと思う。」

20代で亡くなった啄木、30代で亡くなった賢治も、もし90、100まで生きたなら、もっともっと多くを見てとったにちがいありません。

【往還集137】12 寮生活

2016年10月18日
「ほとんどが騒音のかたまり」と書いておきながら、どうしようもない恥ずかしさが甦ってくるではありませんか。
学生のとき2年間、寮生活をしました。寮といいます。周辺は住宅街、すぐ隣は長町中学校です。
土曜日の夜は酒を飲んでストームがはじまる。
花の季節になると桜の名所公園へ、薄汚れたドテラを来て大行進。
なかには深夜の町へリャカーで繰り出し、映画の看板を集めてきたものがいる。
女子高生の名札収拾を趣味にしているヤツも。
近隣からは苦情が何回も来る。それでもやめない。
感謝されたのはたった一回。近所の子どもが行方不明になった。寮生は総出で捜索を手伝うが、どうしても見つからない。
夜も更けてあきらめかけたころ、中学のプールに竹竿を入れたグループがとうとう発見した。
そのときご遺族が寮にお礼にきました。
さすがの寮も、しばらくの間、静まり返っていました。

【往還集137】11 「学生の通行を禁止します」

2016年10月18日
東北福祉大にある芹沢銈介美術工芸館へ。特別展「アイヌの工藝」を見んものと。
仙山線の東北福祉大駅で降りて歩きはじめたら、通路に「学生の通行を禁止します」の掲示が。
この駅ができたあと、大学へ近い私道を通る学生が急増、夜中まで騒音が止まないので、とうとう訴訟が起きました。
結局和解して、私道は通行禁止となったのですが、「まだ通る学生がいます」とさらに貼ってある。
住民のこの訴えはよくわかります。
とかく学生はうるさいもの。
しかもこの年齢は、ほとんどが自己中で、世間でどう受けとめられているかに鈍感なのです。おまけに昼と夜の区別もつかない。
同じことは保育所・幼稚園・小学校・中学校・高校にもいえます。
同年代の子たちが集団になっているハコモノは、ほとんどが騒音のかたまり。
住民はたまったものでない。
「学生通行禁止」とでっかい、でっかい看板をかかげたくなるのです。

【往還集137】10 オリンピックパレード

沿道につめかけた人々と、手を振るメダリスト。

2016年10月8日
雄弁な運転手さん「何時の新幹線ですか、12時30分ですか、交通規制があっても裏道を知っているから大丈夫です」と自信たっぷり。
なるほど、思いのほかすいすいと走る。
ところが京橋に近づいたら早くも規制がはじまり、動かなくなった。
やむなし、降りて東京駅まで歩くことに。せっかくのことだからパレードを見ようじゃないかと、予定を変更。
沿道には、平日だというのにいっぱいの人だかり。上空にはヘリも旋回する。
やがて数台の車に乗ったメダリストたちが。「ごくろうさん、よくやった、感動をありがとう」と歓声が飛ぶ。
愛ちゃんが通るときは、ひときわ声が上がり、「おめでとう」の声まで混じる。
こうして思いがけなく参観しましたが、新幹線でぐったりなりながら「パレードに出たのはメダルをとった人だけ、そうでないおおぜいの選手たちはどんな気持ちで中継を観ていたんだろう」と思ったのでした。