【往還集136】27 本を読むということ

2016年7月22日
私は紙媒体と電子書籍両方用意しているのですが、紙媒体でないとどうしてもうまくいかない。
なぜなら読み進めながら線を引いたり、難解語は調べて書きこんだりする。
さらに読後には重要記述を別紙にノートして扉に貼り付け、読書ノートがわりにもする。 
つまり私にとって読むことは、本との対話です。
こういう作業は電子書籍では困難。
ただし紙媒体で困るのは活字の小ささです。若い日には、大きめの活字を軽蔑する傾向があったのに、視力の衰えたいま逆襲されています。どうしても必要なときは、拡大コピーしてもやはり紙媒体によります。
こういう私にとって困るのは「この本の書評をしてください。お手持ちでないときはこちらからお送りします。使用後は返却して下さい。」という依頼状。
読んだあとに形が消えてしまうなんて、読書ノートにもならないなんて。
というわけで残念ながら大抵はお断りしています。

【往還集136】26 『支那の農民生活』

2016年7月21日
宮柊二は27歳の日に山西省へ出征しますが、現地で病気になり、5か月ほど入院生活を送ります。
それは前線を離れた読書の機会でもありました。
なかに、費孝通(ひこうつう)著、市木亮訳『支那の農民生活』があります。
日本軍と対立している中国、その農村を研究対象にした本を、柊二はどんな気持ちで読んだのでしょうか。少なくとも敵対の意識はない。
1939年刊行のこの本を古書でやっと見つけました。
読んでみると、かなり優れた研究書で、

「科学はしかし自然的要素がよく人間の努力によつて統御され得る限りにおいてのみ支配する。」

というような文明観も散りばめていました。
この一文ですぐ思い起こすのは原発問題です。
人間の力で統御できないのに手を出してしまい、多大な被害を与えている。だのに後退もできない。
人類の行く末を考えるのは単なる観念論でない、そういう時代に放り出されているのです。

【往還集136】25 手放してもいいもの

2016年7月15日
「読書ノート」その3。
「Oggi」2013年8月号「この人に今、これが聞きたい!163」で、元プロ陸上選手為末大が語っています。
陸上は30歳を過ぎると身体能力が下がる、

「でも本を読んだりものを書いたりしていくうち、体力は落ちても考えることや理解することは年齢と共に力がついていくことに気づきます。」

為末という人、ただのガムシャラな選手ではない、自分を客観視する目を持っていると、私は感心しました。

「多くのものを手に入れようと思わないこと。自分がやりたいこと、実現したいことを考えるよりも、やらなくてもいいこと、手放してもいいものを挙げてみるのです。やりたいことはひとつで十分で、それ以上あると、いつまでも満たされない気持ちは変わらないから。」

どんな分野にも、野心を先立て、有名であることに酔ってしまう人がいます。
けれど、沈着に自分自身を見つめる人もいるものですね。

【往還集136】24 忘却の時間

2016年7月15日
「読書ノート」その2。
『藤村全集』「月報9」に瀬沼茂樹が「『新生』について」を書いています。

「歳月というのは、日本人にとって、反芻の時間であるばかりでなく、忘却の時間であり、それ故に時間の力によって心の傷がいやされる自然回復力として働くのである。これはキリスト教主義のような論理をもっていない日本人の自然哲学なのかもしれない。」

考えてみれば、いや考えるまでもなくというべきか、ほとんどの人が思い出すと赤面したくなる過去を持っている。
カトリックの場合、洗礼を受けたのちの罪は、司祭を通じて神に赦しを乞うことが制度化している。
日本の精神風土にはない。
けれど歳月を重ねることは、反芻ばかりでなく忘却の時間でもあり、自然回復力にも通じると瀬沼はのべているわけです。
それはそう、忘れてはならない記憶のある一方で、忘れることによって自分を回復させることもたしかにあります。

【往還集136】23 抒情というものの深さ

2016年7月15日
書棚を整理していたら「読書ノート」が出てきました。
へえ、こんなのがあったのかと我ながら驚いて開いてみたら、ノートの色は早くも変色。 
以前は、本や新聞を読むたびに「これは大事」と思ったのは写していました。それも、いつしか忙しさにかまけて疎かに。
あちこち読んだら、なかなかいい文があるではありませんか。そのなかから3つだけ紹介します。
まず「群像」2003年11月号の加藤典洋「無人国探望記」から。『吉本隆明全詩集』の感想として

「吉本さんの戦前に書いた初期詩篇を虚心に読んで、わたしに感じられるのは、吉本さんの詩がどう、という以前に、詩というもののガラの大きさである。抒情というものの深さ、と言ってもよい。それは、海面は大荒れに荒れても海底はほとんど動かない、そういう深海の不動さを思わせる。」

とあります。
吉本詩に発しながら、詩歌の本質を透視していると思ったのでした。

【往還集136】23 抒情というものの深さ

2016年7月15日
書棚を整理していたら「読書ノート」が出てきました。
へえ、こんなのがあったのかと我ながら驚いて開いてみたら、ノートの色は早くも変色。 
以前は、本や新聞を読むたびに「これは大事」と思ったのは写していました。それも、いつしか忙しさにかまけて疎かに。
あちこち読んだら、なかなかいい文があるではありませんか。そのなかから3つだけ紹介します。
まず「群像」2003年11月号の加藤典洋「無人国探望記」から。『吉本隆明全詩集』の感想として

「吉本さんの戦前に書いた初期詩篇を虚心に読んで、わたしに感じられるのは、吉本さんの詩がどう、という以前に、詩というもののガラの大きさである。抒情というものの深さ、と言ってもよい。それは、海面は大荒れに荒れても海底はほとんど動かない、そういう深海の不動さを思わせる。」

とあります。
吉本詩に発しながら、詩歌の本質を透視していると思ったのでした。

【往還集136】22 次の時代を

2016年7月14日
毎日舞いこんでくる情報は、国内外を問わず、心に重くのしかかるものばかり。
身近の例でいっても、福島原発の影響が今からこそ顕在化してくるというのに、〈国家意志〉は再稼働へごり押ししようとしている。 
可能なら「日本脱出したし」。
が、海外では連日のようにテロが頻発、安心できる国がどこなのか、もうわからない。 
そんなときつぎのような一文に出会い、思わず書きとめたくなったのです。

「虚飾の時代です。利を得るに手段を選ばず、欺き、殺してまで目先の富を守ろうとする風潮が、世界中で目につきます。」
「東部のアフガンという辺境の一角で、世界の流行に惑わされず、ここまで来れたことに感謝します。今後も変らず心ある人々と協力し、実のある歩みを続けていきたいと思います。次の時代を拓く確実な手がかりだと信ずるからです。」(「ペシャワール会報」128号「二〇一五年を振り返って」中村哲)

【往還集136】21 白沢の風景

槐の木が大きくなってきた。
広瀬川上流の渓流。
近くには、季節になるとヤマユリがいっぱい咲く。

2016年7月12日
白沢(しらさわ)は仙台の西郊外、山形方面へ向かう国道沿いから少し逸れたところにあります。
田畑となだらかな山並、そして家屋が点在しているだけ。
いつかはここに移り住もうと思っていたのですが、調整区域になってしまったため宅地はあきらめ、畑にしています。
土と向かい合っては、汗を滴らせる。ボトルの水を呑む。そして周辺を眺める。
すると一時代まえの農村風景へ一気にタイムスリップした気分になります。
こうしていつしか13年たちました。種から芽生えた槐(えんじゅ)の木が、日陰を作るまでにのび、畑土もやっと肥えてきました。 
近辺をめぐると、広瀬川上流の渓流もあります。荒々しい岩を両岸にそそり立たせ、秘境の風貌さえあるのですが、さいわいにも観光化はされていません。
これからもされませんように。
時の流れにとりのこされた空間、それが、かえって心身を蘇生させてくれるのです。

【往還集136】20 書評

2016年7月10日
書評とは、本の内容を批評し紹介すること。総合誌にはこの欄が必ずといっていいほどあり、私も何度となく依頼されてきました。
評の長さは400詰にしたら1~3枚程度。短いから簡単と思ったら、とんでもない。
第1にきちんと本を読まなければ書けない。殊に分厚い評論集のときは四苦八苦(だのに稿料は微々たるもの)。
第2に、書いた人に理解力があるかどうかたちまちわかる(著者本人ならなおさらわかる)。
第3に、たとえ歯ごたえのない本だとしても、どこかいい所を見つけなければならない(意に反してほめることさえ求められる)。
というわけで、書評は気の重い作業なのです。
いつか書き仲間で書評の話題が出、本音を出し合ったことがありました。
「けれど書評をたのまれたときがきちんと読む機会でもあるんだ。そうでもなければ送られても積み上げておくだけだから。読む労力は大変だけど勉強にはなるね。」

【往還集136】19 アナウンサー根性

2016年7月9日
NHKテレビの「ブラタモリ」をよく見ます。
タモリの好奇心の旺盛さがいい。
それにも増して、アシスタント役の桑子真帆アナウンサーが楽しい。
ニュースを読むときのマジメ顔から一変、事あるごとにケラケラ笑う。
私は「ケラケラ姉ちゃん」
と呼ぶことにしました。
その桑子さんが任期を終えて番組を去りました。
ある日、ラジオを聞いていたら「ブラタモリ」の思い出を語っています。
打合せでタモリにはじめて会ったときまず「アナウンサー根性を捨てろ
といわれたと。 
なぜなら、アナはとかく進行を仕切りがちになるから。
これはけだし名言。
取材番組のとき、特にやりてのアナウンサーは自分の調べた知識を先行させ、隣に〈地元人〉がいるというのに、発言のチャンスも与えずに仕切ってしまいがち。
これがアナウンサー根性。
そのためやりての印象をのこすのですが、じつは他者を生かすゆとりがまだないのです。