【往還集135】43 第3変声期

2016年4月30日
昨夜のEテレ「団塊スタイル」は、「森山良子・葛藤を秘めた歌手」。
私は森山の歌が好きで、長く聴いてきた。その彼女も68歳。
さすがに声艶(こえつや)には衰えがある、それでも高音と声量は健在だ。
とはいえ、今日まで順調にきたわけではない。50歳のときいきなり声帯異常に陥り、いくつもの予定をキャンセルした。時間をかけてやっと復活した。
更年期にさしかかり、ホルモンのバランスが崩れたことなどが原因ではなかったかとふり返り、自ら「第2変声期」と名づけている。 
目下声帯を病んでいる自分にとっても、他人事ではない。
こちらの場合、中学時代の変声期を第1とすれば、11年まえが第2、そして今回が第3ということになる。
それぞれに心身のバランスの崩れる時期に当る。
1か月半たって少しずつ作動しはじめた自分、そろりそろりと仕事への復帰を手探り中。 
第4の変声期はもうありませんように。

【往還集135】42 速すぎる

2016年4月26日
書店の数が激減した。本はできるだけ実物を手にしたうえで買いたいから、街へ出たついでに書店に立ち寄る。
けれど売れ筋がずらーっと並んでいて、こちらが欲しいのはめったにない。
いきおいアマゾンへ発注することになるが、到着日があまりに速くて、かえって不気味だ。 
ちなみに最近注文したのは、

●デーヴ・グロスマン『「人殺し」の心理学』、●スベトラーナ・アレクシエーヴイチ『チエルノブイリの祈り』『戦争は女の顔をしていない』、
●柏崎驍二『北窓集』、
●ドナルド・キーン『石川啄木』

などなど。
それらのほとんどが翌日、遅くても翌々日に届いた。
驚くではないか。注文した以上、すこしでも間隔をおかずに手にしたい。
けれど、これでは「待つ」時間が削り取られる。
それに、受注してから配送・配達するまでのシステムのどこかで、肝心の人間を壊しているのではないか。そのことがどうしても気がかりになるのだ。

【往還集135】41 新車

2016年4月25日
自分は73歳。交通の便利でないところに住んでいるから、車は必需品。
とはいえ、そろそろ行動半径は狭まり、感覚だって鈍化するから、あと1回免許更新したら卒業しようと思っている。
これまで使っていたのは四駆の軽。坂が多く、雪も半端でないから四駆でないと太刀打ちできない。
ところが東京の孫がふたりになった。時々こちらに泊まりに来る。いまやベビーカー設置が義務づけられている。軽ではかなりきついため、この3月に普通車に買い替えた。
「スバルXV」。
スポーツタイプの新車に、モミジマークを付けるのは、車に申し訳ないがこの際やむなし。
実際使ってみると、人間の感覚の及ばないところを色々カバーしてくれる。
こと細かに注意までしてくれる。
その性能の行き着く先は自動走行で、目下のあちこちで実験されている。
だが過度の便利さは、人間から運転の快楽を奪ってしまうことまちがいない。

【往還集135】40 花の季節

錦ケ丘桜通りの、ヤマザクラの並木

2016年4月23日
「往還集」はブログですから、本来なら書いてすぐに、1章ごとに発信したいところです。
けれど、新機器を後追いする世代である私には、それもなかなかめんどう、10章たまったところで、おもむろに発信してきました。地味なブログですが、読んでくださる方もおられますので、今回は特にごあいさつを。
3月後半に全身倦怠と声帯不作動におそわれ、安静の日々となってしまいました。
やっと倦怠は抜けてきました。声帯の復調はもう少しかかりそう。
この間に親しい知人が亡くなって気落ちし、さらに熊本地震に心痛を重ねる日々ですが、自然のめぐりには慰められています。
ソメイヨシノの終わったのち、静かに美しくくりひろげられる花の季節。
ことに私の好むのは、ヤマザクラ、ヒトエヤマブキ、カリンです。
それらが家の庭を、また近辺を彩っています。
ヤマザクラの並木、「桜通り」もいまが一番の見ごろです。

【往還集135】39 超文学

2016年4月23日
「世界」2016年3月号に、2015年ノーベル文学賞受賞記念講演「負け戦」が掲載されている。スヴエトラーナ・アレクシエーヴイチさん。
そのなかの一語「超文学」に、私は強く引きつけられた。師であるアレシ・アダモヴイチのことばとして語られている。

「二〇世紀の悪夢について小説を書くことは冒瀆だと考えていました。作り事はできない、真実をあるがままに提供するしかない、「超文学」が必要だ、証人が自ら語らなければならない」(沼野恭子訳)

と。
私は「超文学」という語のあることを知らなかった。
けれどこの一語に釘付けになったのは、すぐに思い浮かぶ1篇があったからだ。
宮柊二『山西省』。あれは歌集ということになっているが、一文芸形式を超えている。それこそ、「真実をあるがままに提供するしかない」思いで作られ、編集された。
『山西省』を超文学として見直す、私にとってこれは新たな視点だ。

【往還集135】38 アンケート・続

2016年4月22日
「そういうことになる前に、歌会始の問題を論議しておかなければならないのに、そこをふせて「時代の危機」へと一般化するのはおかしい、手ぬきだと私は考えています。賛成・反対・疑問いずれでもいい、まずは情報をオープンにし意見をかわしておかなければ、いざというときになしくずしになってしまうのではないでしょうか。」

アンケート掲載は、「新日本歌人」の5月号予定という。そろそろ出るころだろう。
近年の、危うい政治潮流に対して、「ノン」を唱える歌人たちのシンポジウム・集会が開かれた。
私は参加する機会をえないできたが、事後の記録などを読んでいると、歌人としての問題提起なら、歌会始は抜かすことができない、だのになぜそこには触れずに、いきなり潮流を語るのだろうという疑問が浮かんでくる。 
天皇制・国家に最も近い位置に置かれている分野は、短歌だからだ。
だのに、なぜ?なぜ?

【往還集135】37 アンケート

2016年4月22日
新日本歌人協会からアンケート回答依頼が届いたのは2月のことだった。
安保法成立や改憲の動向あるいは短歌と時代の関わりについてどういう考えを持っているかーー。
私は以下のように書いて送った。全文を再現しておきたい。

「九条のもとに育った私は、急速に改憲へ向かおうとする政治潮流に危機感を持ち、(歌人としてよりもまず)一日本人として運動にも参加しています。短歌の分野における諸動向にも、もちろん賛成なのですが、いつも疑問に思っていることがあります。短歌分野の外にいる人には、天皇制に最も近い位置にあるのは短歌だと見える。歌会始があり、権威づけられ、全国放送にまでなってきたからなおさら。与党の改憲案には天皇の元首化ももりこまれている。もしそうなったら短歌と天皇制、そして国家権力はいよいよ密接化し、「大日本歌人協会」の編成まで強いられるかもしれない。」以下次章へ。

【往還集135】36 「越えがたく」

2016年4月20日
「柏崎驍二」で検索してみた。
それによると、葬儀は近親だけですませるという。
いかにも彼らしい、地味で静かな終幕の仕方だ。
私は教員採用試験を、岩手と宮城を受けて両方合格した。しかし採用の話は宮城の方が先だったので、仙台に落ち着いてしまったが、もし岩手が先ならそっちに就職し、柏崎さんともさらに親密に付き合えたはずだ。
今更ながら惜しいが、もはやどうにもならない。
「現代短歌」4月号には「越えがたく」を発表している。そこから抽出しつつ別れとしよう。

「一本のみ残りし松も直ぐ枯れて津波ののちの歳月に向く」
「夜半の雪積もりたるらしドッテデド・ドッテデドッテデ行くのは誰か」
「津波から学びたることを思はんに思ひは泥(なづ)む越えがたくして」

さて自分は不調に陥って以来今日で1か月、少しずつ回復してきた。
も一度再起してみようではないかという意思が俄然湧きあがってきた。

【往還集135】35 柏崎驍二(きょうじ)さん

2016年4月20日
柏崎さんは岩手県生まれの「コスモス」の歌人。
彼の訃報を昨日知り「やっぱりだめだったか」と肩の力が抜けた。
折からこちらも不調状態、吉崎さんにつづく訃報で、身に応える。
逝去は15日、白血病、74歳。
『北窓集』で斎藤茂吉短歌文学賞に決まった。だのに5月の授賞式を待たずに往ってしまった。
私はそんなに重篤とは知らずに、4月9日付「短歌粗描ノート」に

「病長き柏崎驍二を想ふなり中津川の辺歩きしは初夏」

とメモした。
賢治学会を盛岡で開いたとき彼も街の散策に付き合ってくれて、一緒に中津川を歩いた。 
性格温和、作風にも人や風土へのぬくもりがある。
三陸の町出身で、大震災では何人もの親戚・知人を喪った。
その後病を養っていると伝え聞いていたが、一昨日「コスモス」5月号を開き、冒頭歌「八海山」を読んだばかり。重篤の影がないので、まだまだ大丈夫だと安堵したばかりだったのだ。

【往還集135】34 熊本地震

2016年4月18日
もう一つの大きな出来事は、4月14日午後9時26分ごろ生じた熊本の大地震。
益城町では震度7。
以来、今日にいたっても強い余震はつづき、大分県にも波及している。犠牲者もつぎつぎと出ている。
その模様をテレビ、ラジオ、新聞で見る。見るしか何もできない。倒壊した家々、ずたずたになった道路、着のみ着のままで避難する人々、買出しに並ぶ行列――。
他人事とは思えず、心が痛む。
だのに、画面を見つづけるしか、どうにもできない。
あれこれの場面が、こちらの5年まえと近似している。3・11の日々の姿を、いままさに見ている気がする。
あの日、しばらくは電気も切れていたから、テレビもパソコンも使えなかった。だから直後の報道は何も知らない。
けれど圏外の人は、安全圏にいることに心痛しながらも、画面を〈眺め〉ていた。それしかどうにもできなかった。
同じ立場に、自分は置かれている。