【往還集135】20 『砂丘律』・続

2016年1月10日
「防犯カメラは知らないだろう、僕が往きも帰りも虹を見たこと」

街中に設置されている防犯カメラ。誰もが監視される状態にあり、しかもそれが日常であることの不気味さ。
けれど、こちらの内面までは窃視されないぞと歌っている。

「深く息を、吸うたび肺の乾いてく砂漠は何の裁きだろうか」
「西側に落ちて山ごと揺らした。祝砲ぢやないよと君は嘲つた」

中東に立っての歌だ。
同じ状況に身をおいたときの歌は、すでに三井修が作っている。
その三井の場合、中東と歌のコラボに力がありながらも、どこかに痛々しさも潜んでいた。
千種も、異風土に身を置いることでは同じなのに、なまの痛々しさはない。
それでいて中東の重量から目をそらしてはいない。
これは新しい世代の獲得しはじめた表現によるのではなかろうか。
字面を読むだけでは、わからなかった。書写することはクレバスに橋を架ける働きもあると、いま気づいた。