2016年1月5日
私たちは日常的に事件・事故の映像に接している。
砂漠に正座させられての殺害に憤り、難民の幼児の遺体に涙する。なまの事態を広く伝える力が映像にはある。
だのに、その被写体が自身になったときの反応には、落差がある。
3・11のとき、被災者が避難所に犇めいた。
そこに入りこむテレビカメラに向かって憤る人が何人もいた、「おれたちは見世物ではない」と。
だが他方では惨状を伝えない日本のマスコミに批判的な評者もいた。
その一人辺見庸は『瓦礫の中から言葉を』で、テレビや新聞が死と屍体のリアリティを消したことを批判する。ある日突然モノ化してしまうという哲理を無視するのは、死者に対する敬意がないのではないかと。
が、被災地の直近にいた自分には、この考えに違和感があった。
ここには渦中にいるかいないかの、距離の問題がある。
あれ以来5年経とうとし、いまもなおこのことを考えている。