2016年1月12日
旧約を読んでいると、殲滅はつぎつぎと数限りなく出てくる。
ヤハウェを信じないものはいずれ滅ぼされる、しかも徹底的に滅ぼされる。
これでは人類がいなくなるのではと心配にさえなる。
おそらく、これが一神教というものなのだろう。こちらの神だけが正しいとなれば他は異端となり、争いは永続するほかない。
だが私などは、どの神を信じようが救われることにしてほしい、いや、信じなくても救いはあることにしてほしいと思っている。
そればかりか、どんな罪業を犯しても救われてほしい。
これでは、虫がよすぎるか。
たぶん。
一切のしばりがなくなったら、好き勝手に生きる人は必ず出てきて、世の中は乱れに乱れるだろう。
それではどうするか。解決法はあるか。
ここを親鸞は思索し、悩み、さらに思索したと思う。旧約と『教行信証』を少しずつ読み進めるようになって、そういう問題が見えるようになった。
月: 2016年1月
【往還集135】21 殲滅(せんめつ)
2016年1月12日
学生になって仙台にやってきた1961年は、安保闘争後の余熱が、まだまだ燻っていた。
大学構内に入ると墨で大書した立て看板すなわち立看がずらりと並んでいる。まるで戦国の砦にまぎれこんだよう。
なかにたっぷりと墨を滴らせた「殲滅」一語があった。
「せんめつ」と読み、皆殺しにして滅ぼすことの意味―とは、あとで調べてわかったこと。
それを目にしたとき、「講義にもほとんど出ないのに、よくこんな難しい漢字を知っているものだな」と感心した。ほとんどプロ級の学生運動家が、何人もいたのである。
以来この一語が妙に記憶に留まりつづけてきたが、旧約を読み進めている昨今、「殲滅」が何度も浮かび出てくる。
『十二小預言書』の「ゼファニヤ書」から。
「ヤハウェの憤りの日に、/全地はその激情の火で焼き尽くされる。/まことにヤハウェは破滅を、まさに恐怖を/この地に住むすべての住民に臨ませる。」
【往還集135】20 『砂丘律』・続
2016年1月10日
「防犯カメラは知らないだろう、僕が往きも帰りも虹を見たこと」
街中に設置されている防犯カメラ。誰もが監視される状態にあり、しかもそれが日常であることの不気味さ。
けれど、こちらの内面までは窃視されないぞと歌っている。
「深く息を、吸うたび肺の乾いてく砂漠は何の裁きだろうか」
「西側に落ちて山ごと揺らした。祝砲ぢやないよと君は嘲つた」
中東に立っての歌だ。
同じ状況に身をおいたときの歌は、すでに三井修が作っている。
その三井の場合、中東と歌のコラボに力がありながらも、どこかに痛々しさも潜んでいた。
千種も、異風土に身を置いることでは同じなのに、なまの痛々しさはない。
それでいて中東の重量から目をそらしてはいない。
これは新しい世代の獲得しはじめた表現によるのではなかろうか。
字面を読むだけでは、わからなかった。書写することはクレバスに橋を架ける働きもあると、いま気づいた。
【往還集135】19 『砂丘律』
2016年1月10日
現代短歌の世界では世代間格差の問題が顕在化している。
それは穂村弘の世代あたりからはじまったが、穂村個人の責任というわけではない。
既成の短歌観を無効とするなにかが生じ、深いクレバスができてしまったというべきだろう。
私も若い世代の作品はしばしば了解不能になり、読むだけで疲れてしまう。
しかし若い世代同士にはクレバスの意識がなく、共通理解し合っているにちがいない。
千種創一は1988年生れ。現在中東に暮している、自分にとって未知の人。
近刊『砂丘律』を開きつつ、やはり了解を阻害されるなにかを感じた。
とはいえどこか気になる作品も少なくない。それらに○を付けておき、読み終わったところで自家製「短歌ノート」に書写していった。
そのとき、予期しない不思議なことが起きた。
〈好き勝手〉な飛躍をクレバスとしか感じられなかったのに、手で書くことによって連結が生じはじめた。
【往還集135】18 ひとり死
2016年1月7日
古来、不老不死は人間最大の憧れだった。老いたくない死にたくないいつまでも若いままでいたい。
この願望に応えるべく医術・化粧術その他の○○術が進化してきた。
そのかいあって平均寿命はのび、一昔前では考えられないほどの若さも保っている。
私は現職のとき三者面談を何回もやった。母親への挨拶をかねて
「お姉さんですか?」
と尋ねると、すごく喜んだ。
半ばはお世辞だが、半ばは本気で。
それほどまでに40代と20代の区別はつきがたくなった。
しかし永久の不老不死はありえない。誰もが平等にいずれは死ぬ。
そこで気づくのは、長寿へ向かう医術その他は次々と進化するのに、死に方については疎かにされていることだ。
一人で亡くなると「孤独死」として哀れがられる。
が、静かに生を閉じる「ひとり死」もいいものではないか。
苦痛なしに、自分の意志で終幕を迎えられるなら願ってもないことではないか。
【往還集135】17 映像化・続・続
2016年1月5日
私たちは日常的に事件・事故の映像に接している。
砂漠に正座させられての殺害に憤り、難民の幼児の遺体に涙する。なまの事態を広く伝える力が映像にはある。
だのに、その被写体が自身になったときの反応には、落差がある。
3・11のとき、被災者が避難所に犇めいた。
そこに入りこむテレビカメラに向かって憤る人が何人もいた、「おれたちは見世物ではない」と。
だが他方では惨状を伝えない日本のマスコミに批判的な評者もいた。
その一人辺見庸は『瓦礫の中から言葉を』で、テレビや新聞が死と屍体のリアリティを消したことを批判する。ある日突然モノ化してしまうという哲理を無視するのは、死者に対する敬意がないのではないかと。
が、被災地の直近にいた自分には、この考えに違和感があった。
ここには渦中にいるかいないかの、距離の問題がある。
あれ以来5年経とうとし、いまもなおこのことを考えている。
【往還集135】16 映像化・続
2016年1月5日
テレビの笑福亭鶴瓶や火野正平の旅番組をよくみる。
いきなり家庭やレストランを訪問する。
そのときの無名の人々の戸惑いが、みるがわには新鮮だが、被写体のほうは迷惑千万!の反応をする人も少なくない。
個人の領域に踏みこまれたくないという感覚は、多くの人がもっている。
私も新聞・テレビで、家での仕事ぶりを映したいといわれることがあるが、全て断っている。
家といえど、極私(ごくし)的な空間であり、いうなれば秘密基地だ。
そこをなんのいわれもない視聴者に公開されたのでは、たまったものでないという拒否感が先立つ。
旅番組の場合も同じことで、映像化されることを、ほとんどの人が迷惑がる。
だから家庭やレストランなどへ入るときは、スタッフがあらかじめ許諾を得ているはずだ。そうでなければ次々にトラブルが生じる。
下準備をしたうえで、あたかも突然の訪問のようにみせるのが、芸のうちでもある。
【往還集135】15 映像化
2016年1月5日
仙台文学館の「杜の小径」も、春には終了することになった。
正月恒例の「仙台雑煮」も最後。
これには長面浦(ながつらうら)産のハゼも入っている。追波湾(おっぱわん)に近くハゼ漁の盛んだった所。大きな被害を受けたが、やっと復旧しはじめた。
取材の記者がいたので、「杜の小径」のこれまでについて説明する。
この記者が、食べている写真を撮りたいといったとき、近くにいた男性が
「写真なんか撮るな!」
とかなりきつい声をあげた。
一瞬、まわりの人たちは凍りついた。
そのときの男性の心になにがあったのかは測りかねる。
写真として新聞に載っては困る事情があったのかもしれないし、たまたま居合わせた〈大衆〉として扱われることへの忌避感があったのかもしれない。
後者の感覚なら自分にもよくわかる。
自分のみならず「仙台雑煮」を食べたくてきた人だれにも共通する。
こういう映像化の問題は日常的に起きている。それを考えてみたい。
【往還集135】14 好色
2016年1月3日
二宮冬鳥は医者である。院長も勤めたことがあるから半端な医者ではない。
だが好色でもある、医者と好色を「だが」で繫ぐ根拠はなにもないけれど。
医者かつ好色の第一人者は茂吉。
二宮も負けてはいない。
好色とは、人格まで踏み込まず「女性」という外見を男性の目によってとらえることをいう。
『青嚢集』から。
「冬されば電車の中にをとめごの腋間の草をみることもなし」
「さにづらふをとめのともがわが妻にくらぶべくなくあまた美し」
「おほよそは生殖機能そなへたるをみなごなればかなしきろかも」
電車で窃視するおとめごの腋の毛によほどエロスを覚えたらしい、何首も作っている。
2首目は、妻が読んだら機嫌をそこねそうな歌。
3首目には医者としてのまなざしも介在する。
『黄眠集』には
「美しき車中のをとめに安らぎぬ美しくなき時もやすらぐ」
もある。女性側からしたら「よけいなお世話!」と抗議したくなる歌。
【往還集135】13 「歌にならぬやう」
2016年1月3日
昨年暮れから『二宮冬鳥全歌集』を読みはじめた。
この歌人の、短歌のわくにはまらない歌風には、以前から関心をいだいていたが、やっと全貌を探索する機会を持つことになった。
「歌にならぬやうに歌にならぬやうにと作るうた一つの悲劇の如く思へど」
『黄眠集』に、こういう歌がある。
「「晴れてゆくしぐれに傘をたたむ汝」ああそのつぎに常識くるな」
こういうのもある。
『青嚢集」』(せいのうしゅう)「巻末記」には歌壇の封建制への批判が記されている。昭和21年に書いているのだから、戦前・戦中への反省と抵抗がある。
けれど「歌にならぬやう」にするための最も明確な選択肢は、短歌を否定することだし、実際離脱した人は少なからずいた。
二宮の場合は離脱でなく内部批判である。だから作りつづけ、伝統性とはひと味もふた味もちがう、個性的な歌を量産した。
「ああそのつぎに常識くるな」と、なによりも自らを戒めながら作りつづけた。