2015年9月26日
旧約の『エレミヤ書』は、読むほどに憂鬱になる。
ヤハウェに順わないものたちが、際限もなく殲滅(せんめつ)されていくのだから。
なかでも「20」の「呪われよ、私の生れた日」にきて鬱は頂点に達した。
「呪われよ、私の生れた日。/母が私を生んだその日は、祝福されることがないように。」
とはじまり自分を胎内で殺してくれなかったことを悲憤する。
「私の母を私の墓とせず」とはそのことだ。母胎は生命のはじまりとばかり思っていた自分、あまりのつらい句に、心底まで凍りついた。
この人はよほどのつらい人生を送ってきたのだ。
けれどどうしても、どうしてもだめなら、死の選択は誰でももっている最後の権利であり救済ですらある。
したがって、母胎を呪う発想にはいかない。
それなのになぜ?
私は気付いた、生は神から授与されたもの、自分で勝手に始末してはならないという精神風土を前提としているのではないかと。