【往還集134】33 「草藏」

2015年9月28日
句歌詩帖「草藏」の発行人は、佐々木六戈(ろっか)。「開扉の辞」に

「ねがわくは/句と歌と詩の言葉が/草ほどの光栄を纏うて/われらが書の藏に/入らんことを」

とある。
3分野の総合誌を企図し、本人も毎号句と歌と詩を掲載する。
私はどちらかというと句がいいと思っている。
が、なによりもおどろくのはその博学ぶりだ。古今東西の文物を跋渉する。西洋関係にきわめて弱い自分は、グノーシス、ウィトゲンシュタイン、フランシス・ボンジュなどのカタカナ名が出てくるだけで、もう降参。
と、弱気を吐きながらもエッセイを読んでいると、折々なるほどと深く納得することもある。
第83号の「草のとざし扃」は、

「名があって、物が生まれる。物があって、名が生まれるのではない。」

とはじまる。
人間は物を名づけることによって世界を獲得した気でいるが、じつは名づけられないままの膨大な世界に取り巻かれているのだと私も思う。

【往還集134】32 サイパンの母子

2015年9月27日
米軍がサイパン島へ上陸。日本軍と激しく交戦する。
行き場を失った住民たちは崖上から海へ身を投じる。
この場面、米軍側から撮影され、何度となく記録映像として見てきた。
一人の婦人が崖に立ち、一瞬躊躇したのち、身を躍らせて足先から飛び降りる。婦人単独の投身行為だと長く思ってきた。
ところが実際は、抱きかかえてきた赤子をさきに投げ込んでいた。
BS1スペシャル「戦争とプロパガンダ アメリカの映像戦略」で、そのことをはじめて知った。
アメリカも厭戦気分の出るのを恐れて、赤子の映像は長い間秘していた。
草をかきわけて、切り立った崖上までくる。婦人はまず、物を抛るようなしぐさをする。赤子!と気づくのは、撮影者も一瞬のちだ。つづいて赤子の母親が身を投じる。
カメラは、海面をくらげのように浮遊する、白く小さい赤子をとらえる。
そのすぐ近くには、俯いたまま波にもまれる母親の姿が。

【往還集134】31 「私の母を私の墓とせず」

2015年9月26日
旧約の『エレミヤ書』は、読むほどに憂鬱になる。
ヤハウェに順わないものたちが、際限もなく殲滅(せんめつ)されていくのだから。
なかでも「20」の「呪われよ、私の生れた日」にきて鬱は頂点に達した。

「呪われよ、私の生れた日。/母が私を生んだその日は、祝福されることがないように。」

とはじまり自分を胎内で殺してくれなかったことを悲憤する。
「私の母を私の墓とせず」とはそのことだ。母胎は生命のはじまりとばかり思っていた自分、あまりのつらい句に、心底まで凍りついた。
この人はよほどのつらい人生を送ってきたのだ。
けれどどうしても、どうしてもだめなら、死の選択は誰でももっている最後の権利であり救済ですらある。
したがって、母胎を呪う発想にはいかない。
それなのになぜ?
私は気付いた、生は神から授与されたもの、自分で勝手に始末してはならないという精神風土を前提としているのではないかと。

【往還集134】30 清しき論理

2015年9月19日
国会周辺は強行採決をまえに、防護壁用の車で固められた。抗議する人々が歩道まであふれないように。
私はテレビで固唾を呑んで見ていたが、とっさに浮んだのは岸上大作

「装甲車踏みつけて越す足裏の清しき論理に息つめている」

だった。
60年安保当時の装甲車は丈も低かっただろう。
今度はそう簡単には踏み越えられないが、やる気ならできる。
しかし最後の場面にきても過激さに出ることはなかった。
それが今回の特徴でもある。
45年まえ、岸内閣は全国的な反対運動を無視して安保を可決させた。
もはや議会民主主義は機能しない、体制を打破しなければ展望は開けないと先鋭化させていったのが「清しき論理」だ。
今回特に若い世代は、抗議運動など無視してはばからない政治を、まざまざと見た。
問題はそこからだ、無力感にさいなまれて後退するか、選挙で立て直そうとするか、論理を先鋭化させようとするか。

【往還集134】29 平和な抗議集会

2015年9月19日
未明、安保法案はついに強行突破となった。憲法学者の大半がこの法案は違憲であると明言しているのに、数をたのんで強行する安倍内閣という独裁性。
戦後日本はここで大きな曲がり角へさしかかった。
私は茱萸坂へは行けなかったが、仙台の反対集会には足を運んできた。
西公園に集ういっぱいの人々、そのなかのひとりとして声をあげ、街頭を練り歩く。
若い人も老いた人も、幼児をおんぶした人も、その他さまざまな人が、雨中にもめげずに詰めかける。
60年安保の熱気が、55年ぶりに甦ったーーと思う。
けれど、学生の日に度重なる集会に参加し、過激なデモもくり返してきた身には、なにか、浦島太郎になって陸に帰ってきたような感じもする。
集会を司会する声には迫力がない。
デモもただ声を張り上げて歩くだけで、けっしてジグザグに出たりはしない。
どこにも暴力性の存在しない、平和な抗議集会なのだ。

【往還集134】28 瑣末なことですが

2015年9月11日
今日は瑣末なことですが、気になる2点をとりあげます。
まず第1点。
明治大学法科大学院教授が、教え子に問題をもらしたと報道されました。
出題に関与する立場の人間が、教える立場にもあるなんて、一般人にはそもそも不可解。 
そしてまた、もらした相手が「女子受験生」と性別を特定する報道も不可解。
なぜ、ただ「受験生」「教え子」ではだめ?「女子」と明示することによって、男女のただならぬ関係まで匂わせてしまいませんか。 
第2点。
時々美術展へ行きます。
絵画の脇には解説も掲示されている。解説文は研究員や学芸員の腕の見せ所。描いた背景を知るのは鑑賞の役に立つこともある。
だがあまりにも中身に入りすぎて、作品の見方を誘導する傾向になりがち。
こちらは、ひとつの絵画と静かにじっくり対面し、対話したい。
そこに割り込んでくるなんて、よけいなおせわ。
解説は、ほんの最小限でけっこうです。

【往還集134】27 電柱の人

2015年9月10日
常総市で堤防が決壊。電柱にすがりついたまま救助を待つ人がテレビに映る。電柱も、支えになっている樹木も危ない。
それ以上にこの人の体力がなくなったら、たちまち濁流に呑まれる。
救助のヘリは数が足りないのか、なかなかやってこない。
その間、取材のヘリが撮影しつづける。
人が生死の境にいる切迫したリアルな場面、多くの人は心を痛めながらも目が離せない。内心では、撮影なんかしていないで救助したらどうなんだと報道ヘリに腹を立てながら、そうもできないことを知っている。
知っているけれど何んともかんともやりきれない。
いったいぜんたい、こういう事態をどう納得したらいいのか。
私にはいまだにわからない。
同じような記録は大震災のときも、戦争のときも数限りなく見てきた。
なかには世界的反響を呼び、ピューリッツアー賞を得るのもあるが、ああいうときの受賞っていったい何なのだろうか。

【往還集134】26 ことばの力

2015年9月5日
3・11の夜以来、私は歌を作った。今までになくあふれ出た。
担当している新聞歌壇にも、震災詠はつぎつぎに寄せられた。
そういう動向をもって「ことばには力がある」といわれはじめたとき、ひどい違和感を覚えた。
どんな大災害に遭っても人間にはことばがある、ことばを通して結び合い再起していけると激励したい気持ちはわかる。
けれどこちらは徹底した破壊をまえに、ことばの無力を思い知らされていた。
だのに作品が生れたのは、定型と現実を直叙する手法がこの分野に蓄積されていたからだ。
熊谷達也氏も

「徹底的な破壊と混沌と、そして大量死を前にした時、言葉は無力だ。」(「私の一冊」「仙台文学館ニュース」29号)

と明言している。

「その時点で、小説家としての私は、おそらく一度、死んでいる。」

ともいう。
歌人も同じようにあの時に死んだ。
ただ定型の存在によって、死に体は辛うじて支えられただけだ。

【往還集134】25 妻という女を匿い

2015年9月2日
「塔」の歌人川本千栄を歌集、評論ともに注目してきた。
うまいから、というのとはちょっとちがう。歌をいくら作っても、どこかに剥落感がのこる。

「重ねても重ねてもこの色ではない詠っても詠ってもこの言葉ではない」

という通りなのだ。
そこが私にとっては逆に興味深い。
『樹雨降る』は最新歌集。そのなかにこういう一首が。

「妻という女をしま匿い男らは一人で生きているがに働く」

川本は教師。男性の同僚と共にいる。
この男たち、結婚し妻を持っているはずなのに、まるで一人のように働いているではないかーー。
私自身、妻も子もいるのに独身者だと長い間思われていた。
この逆に、女性教員には職場に家庭を持ちこむ人がけっこういる。すぐ近くの席の人などイスに坐るやいなや姑の悪口をまくしたる。それが終ると今度は、優秀な息子の自慢話。
来る日も来る日も。
彼女には家庭と職場の段差はまるでなく、地続きだった。

【往還集134】24 号泣

2015年9月2日
宮柊二の『多く夜の歌』は1961年刊。はじめて読んだのは学生の日だった。
その時代、学生の経済状態は歌集を買えるようなレベルにはない。
選集ながら『群鶏』『山西省』に感銘を受けていた自分、新歌集が出たというので読みたいと思っていた。
そのことをなにかの折に話したところ「短歌人」の大和克子が貸してくれた。
さっそく読んでみた自分、『山西省』とはまるでちがう平板さにがっかりした。
こちらが若かったせいもある。
今回再読してみてやはり平板の印象は同じ。けれど家族と仕事を抱える生活者の日々、内に堆積する憤怒は、若い日の宮肇(柊二の本名)の心の在りようと通底する。

「悲しみを耐へたへてきてある某よ夜せしわが号泣は妻が見しのみ」

この悲しみがなにを起因とするかはわからない。
内にこらえられるだけこらえて、ついに噴出してしまう激しさは、『群鶏』のものであり『山西省』のものでもあった。