作家高見順は1907年生まれだから、敗戦の時は38歳。1943年に陸軍報道班員としてビルマへ派遣されたものの徴兵にはならず、以後鎌倉に住む。
たびたび上京しては敗戦にいたるさまを直視し、日記にとどめていった。
玉音放送の日に妻が「ここで天皇陛下が、朕とともに死んでくれとおっしゃったら、みんな死ぬわね」といったのに対し、「私もその気持ちだった。」と書いている。
そこは庶民と落差がある。庶民のほとんどは死ななかったと思う。
けれどその他の記述には現在をも射当てることががあちこちにある。
「金のない者は結局、こうして身動きができず、逃れられる災厄からも逃れられないのだ。東京の罹災民は、みなそれだ。金持はいちはやく疎開して、災厄からまぬがれる。」
1945年3月12日の日記。
現在だって、金があり地位があり自由のきく人は、まっさきになりふりかまわず逃げて生きのびる。
(2015年8月10日)