【往還集134】9 『男しか行けない場所に女が行ってきました』

2015年7月30日
 『女装してーー』と同様いやに長ったらしい題の本。
著者田房永子はエロ本編集の仕事をしていて、男の風俗の現場のあちこちを取材してきた。そのレポートがこの本だが、女にはない男の自由さを感じ、猛烈に嫉妬さえしてきたという。
そういわれてみれば男の風俗は「人妻アロマオイルマッサージ」「ドール専門風俗店」「密着型理髪店」「ストリップ劇場」「パンチラ喫茶」などなど多種多彩で、一つが廃れてもすぐに新手が出現する。
クリスチャンは女性世界の豊饒さに感嘆したが、男性世界だって同じことなのだ。
女性の場合は美化をわが身に集中させるが、男性は外部すなわち異性にそれを求める。
田房は風俗嬢やAV嬢を取材しながら彼女たちに対する自分の思いは尊敬と軽蔑どちらかと自問する。
その結果「敬蔑」の語彙を手に入れる。
ここが重要な切り口だが、惜しいことにあと一歩の突込みが不足している。

【往還集134】8 『女装して、一年間暮らしてみました。』

2015年7月27日
ドイツの作家、元テレビ番組・映画プロデューサーのクリスチャン・ザイデルが1年間女装してみた。
女性の衣服といい香水といい、なんと豊かなことか、女性が男性の衣服を身に付けるのは公認なのにその逆は何故ダメ?を問うための実験だ。
たしかに、男性から見た女性は、頭のうえから爪の先まで美容する豊饒このうえない存在だ。
それに対して男性はいかにも抑圧されているとクリスチャンは考える。
1年間の実験の結果「男と女のあいだには明確な境界などない。性別とは潮の流れのなかで混じり合う渦だ。すべてがそこに飲み込まれ、ひとつになる。」という結論に達する。 
これは私の考えと交叉する。
人は自分の選択の効かないまま男または女に生まれる。その性差を歴史的にまた文化的に背負わされて、成人する。
だが男性も女性も、そもそもは同等の生命体だ。その原初の日へいつでも遡行できる眼を持っていたい。

【往還集134】7 性差を超える

2015年7月27日
高齢者の仲間入りして体力・眼力・性欲その他がガタガタ落ちてきた。落ちるとはすなわちマイナス要素のようで、そうとはいえないこともある。ギラギラした性欲がなくなった分、性差について率直に考えられるようになってきた。例1。浮世絵の交合図で目を細める女性の表情。女性の法悦まで男が所有していると見られてきたが、あれは所有関係を超脱し性差を無化した極点の表情ともいえる。
それならなぜ女性像にしているのかと問われれば、性差の残存していることは認めざるをえない。
けれど性差に拠りながらも性差を超える視点はありうる。
例2。色彩華やかな女性下着。それに欲情を覚える男性がいる。
だが下着とは性差のうえに練り上げられてきた、女性の服飾では最も粋な芸術品でもある。
欲情を乗り越えさえすれば、「美しい」と率直に感嘆することができる。
高齢になって私もやっとその域に手をかけはじめた。

【往還集134】6 『正法眼蔵」』

2015年7月26日
 早暁の源氏書写を終わったとき、つぎに取り組むのは道元『正法眼蔵(しやうぼふげんざう)』と決めていた。 
名僧の輩出した鎌倉時代にはかねてより関心があり、関連本を読んでいたが、なかでも突出した人物は道元だと知るようになる。ただし『眼蔵』も、これまた突出した難解本。 
ならばこの際腰を据えてやろうじゃないかと思い立ったのが2008年2月28日。
以来7年5カ月を経て終了となった。
やはり超難解。
仏門者を相手に説くのだから外部の者がいくら努力しても限界はあるという評者もいた。この評者は外部人の手に成る注釈書も否定していた。
私もそういう評価がわからないわけではない。
けれどこの論理でいえば、信仰者でないものが聖書を読んでもむだということになる。 
はたしてそうだろうか。外部の者が読むことによる新発見もあるのではないか。
『眼蔵』はまちがいなく超難解だが、閃きのことばと出会うことができた。

【往還集134】5 逆走

2015年7月23日
小学5年まで過ごした岩手県前沢の自宅前は、直角の曲がり角だ。城下町の名残という。そこを曲がると一直線に駅へ通じる。
2歳の日に出征していくお兄さんたちを見送ったのはちょうど角のところ。
その記憶が時を経ても褪せない。
もしかしたら今の政治、この日へと逆走しているのではないか。戦争に巻き込まれることはゼッタイにありえない、徴兵制などゼッタイにありえないと〈私は総理〉といばる人の力説するたびに、あやしさは増す。
高速道路できわめて危険なのは逆走だ。進行方向を錯覚して、南へ行くべきを北へ疾走する。
〈私は総理〉は、自分こそが正走、相手が逆走だと思い込む。
しまつの悪いことに、一緒に暴走してエンジンをふかす連中が「親分さん、あなたがゼッタイに正当だ」と持ち上げる。
そのくせ、どのタイミングで足を引っ張ろうかと隙を狙う。
なんという、うそ寒い時代に立ち合っていることか。

【往還集134】4 一人称と自意識

2015年7月20日
「短歌往来」連載の「歌の遠近術(11)」に、人工知能の発達と短歌創作の関係をとりあげた。
「偶然短歌」が出現して、57577にあてはめることが可能になった。さらに進んだら創造性にまで割り込んでくるのではないか。 
私の目下の結論は、短歌の基本である一人称は生身から発し、創造の源泉でもあるから人工知能には限界があるーだ。
『なるほど!赤ちゃん学』(新潮文庫)のなかで高橋英之氏は、ロボットが赤ちゃんから学ぶべきことを書いている。
それは「自分が自分である」という感覚、自己意識だという。人間の知的な行動の大部分は自己意識を土台に成り立っているともいう。これがロボットには不足している。
自己意識と一人称は大いに関係がある。一首の背後には「自分が自分である」の感覚があるのだから。
ロボット研究者は自己意識を持たせる方法を研究中という。
これからが楽しみというか怖いというか。

【往還集134】3 全国に迷惑かけているところ

2015年7月16日
 岡崎康行散文集『曇り硝子』の「水郡線に乗る」。
郡山市で短歌会があった折会津地方の人が「福島県がこんな迷惑かけて」と口にしたという。
また伝聞ながら東京の新入社員歓迎会で福島出身といったら「ああ、いま全国に迷惑かけているところか」と反応されたという。
もし本気でいったのなら許しがたいが、ジョークとする受け止め方もありうる。
5月に宮古市でハートネットTVの「震災を詠む」の収録を行った。応募作に

「同級生〈津波のヤツラ〉とつぶやきくやしさにじむコップ酒飲みぬ」

があった。
同級会で津波の犠牲者を悼む場面だ。そのときの〈津波のヤツラ〉は差別語かといえばそうではない、同級生ゆえの親愛と哀悼の気持ちが含まれる。
福島の場合も私はジョークとみたい。
これだけの度量がなければ、被災圏のものの心中には怒りばかりが溜り自らを磨滅させてしまう。
抵抗に必要なもの、それは静かな力だ。

【往還集134】2 中津昌子『むかれなかった林檎のために』

2015年7月15日
 「かりん」2015年5月号に中津昌子は「断絶とみえるものをめぐって」を書いている。永井祐、高野公彦、日高堯子を例示しながら、〈私〉の在りようを見据えた優れたエッセイだった。
その印象がまだ消えないうちに、新歌集『むかれなかった林檎のために』を手にすることができた。
対象と真向かうときの揺るぎなさ、それでいてダイナミズムともいうべき要素も秘められている。
特に印象に残った6首を引用したい。

「なまなまと雨は濡らしぬ丹の色に切り崩されし断崖の肌」
「眠って眠って産道を下りてゆくように母は眠りぬま昼をふかく」
「つかみかかるかたちに波は荒れながら海に向く墓一つにあらず」
「冬雲はダイナミックに動き出し古代劇ゆく人のごとしも」
「雪あかく汚れていたり杉の木が太く引きずり出されし傾り」
「蝶番はるかに鳴らしお降りてくる夏か緑の穂がゆれている」

最後の歌には解きがたい不可思議さがある。

【往還集134】1 偶感篇休止

2015年7月14日
「140字偶感篇」をはじめたのは1月23日のこと。「書き始めた途端にもう締め切り」(千葉雅也)の一語にいきなり点火されてスタート。ぴったり140字に当て嵌めるゲーム性が気に入り、湧きに湧く。
ところがある日気付いた、歌の意欲が衰えている、むりやり作っても駄作ばかりではないかー。
ここで一気に20代へ逆走する。
第1評論集『新美南吉童話論』が評判を呼び、児童文学創作の依頼もつぎつぎと舞いこむ。それに応えて『白鳥』『もえるゆき』を出した。
ところが創作をしていると、短歌作品が薄っぺらになる。評論ならどの分野でもやれるのに、創作の同時進行はどういうわけか自分を拡散させる。
いったいどっちを選ぶ気だと自問した末に児童文学創作は諦めることにした。
あのときと同じことが今回も再来。
というわけで「偶感篇」は133号の100回をもって休止し、もとの「往還集」に戻る。

【往還集133】100「金の卵」

2015年7月11日
 6月30日、東海道新幹線内で焼身自殺発生。犯人の男性は71歳。岩手から金の卵として都会に就職。生活に困窮して遂に事に及んだ。自分と同郷で同年代。とても他人事とは思えない。中卒の同級生を早春の水沢駅に何回も見送った。金の卵とは名ばかり、彼らのほとんどはその後並々ならぬ苦労をした。