【往還集132】10 「雪と死顔」

前田夕暮の1936(昭和11)年は、生涯のなかでも辛い年だった。二・二六事件が起きて世情は不安。8月に、白日社の長年の同行者熊谷武雄を失う。自分も糖尿病性白内障で手術。そして12月には、長女妙子が死去する。
妙子は自由学園でキリスト教教育を受けた気立てのやさしい少女だったという(前田透『評伝前田夕暮』桜楓社)。肺結核にかかり、5年の闘病の末に19歳の若さで逝く。
『青樫は歌ふ』の「雪と死顔」は、余命を宣告されてより葬送にいたるまでの連作。

「かぎられたいのちと知り、多磨墓地を撰定する」

の詞書のもとに

「墓をさがしに行き、帰つて来てわが子の眼を恐れる。しづかすぎるその眼を」

がある。まだ生きているのに墓をさがす親の無念さ。

「子の死顔、花で飾るといふ、この哀しい歓びをゆるしてくれ」

子を失った悲しみは以後も消えない。美しい歌をのこしえたことが、せめてもの幸いだ。
(2015年1月17日)