【往還集131】30 「双子なら同じ死顔」

震災詠に関連して、短歌と俳句のことをこれまでになく考えてきた。
短歌に比べて俳句は沈黙度が大きく、それが震災詠を深くしていると私も認める。
ならば俳人も沈黙度において勝るかといえば、私の勝手な印象ではそうではない。作品の沈黙の反動かと思うばかりに、饒舌で我が強く自己解釈にこだわる人がけっこう多い。 
照井翠に

「双子なら同じ死顔桃の花」

がある。釜石での被災体験から生まれた。
「これは名句なのか?」(『俳句』2014年9月号)で恩田侑布子は、双子なら同じ死顔という断定を平凡な一人の母として肯うことができない、人は一人一人死顔がちがうと批判している。
いうまでもなく、双子とはいえ顔も性格もべつだ。
だが照井は、被災の直下にいて犠牲者を個々でなく、まず類として受けとめた。
個々に目が行くのは圏外にいて客観視できる人だ。
こういう落差の存在に恩田の目は届いていない。
(2014年11月17日)