戦中派のもうひとりの先輩教師についても話したい。
自分の初任校の教頭だった久保田三郎先生。彼は温厚な性格で、酒の席では踊りまでやる人だった。
家族4人で大陸に渡り、牡丹江に住む。その地で本人は召集され、終戦となってシベリアへ抑留。
妻と娘2人は日本へ逃れようとするが、長女を見失ってしまう。
帰国した妻、次女は間もなく衰弱死。
そののち本人も帰国し、死亡公報を断りつづけて長女を捜しはじめる。
初任校での出会いは、そういう時期だった。自分と同期の教師は何人かいたが、娘たちと同じ年齢のせいもあってか、なにかと可愛がってくれた。
やがて久保田先生は定年退職し、自分も転勤する。
1978年のこと、新聞を開いて
「33年ぶり娘から手紙 父親と呼ばれ感激」
のタイトルが目に飛び込んできた。
長女の名前は祥子(さちこ)さん。長春の人に拾われ大切に養育されていた。
久保田先生も、もう故人だ。
(2014年11月30日)