宗教の暴力性を口にして、思い出したエッセイがある。
木下長宏「〈失われた時〉を見出すとき(104)」(「八雁」2013年1月号)だ。
木下氏は、古今東西の文物について博識の人。エッセイは宮沢賢治の宗教性を主眼にしているのだが、その過程でユダヤ教・イスラム教・キリスト教を、また小乗仏教・大乗仏教を視野に入れる。
「それにしても、なぜこんなに、世界中の宗教は分裂し、分裂した他宗会派を憎むほどに拒絶しなければいられないのだろうか。」
と問う。
賢治も宗教という活動の抱える暴力性について考えなかったはずはない、だが答を見つけられないまま死んでいったというところで、エッセイは終わる。
賢治は、父親や親友へ改宗を迫った。それは暴力性の表れだ。他方、「銀河鉄道の夜」は異教を超えている。
宗教が深いところに孕む暴力性と融和性、この大きな主題を提起したところで賢治は早世してしまった。
(2014年7月22日)