【往還集129】32 ずぶぬれの犬

住宅(すみたく)顕信(けんしん)という俳人がいた。白血病で、25歳の生涯を終える。その彼の

「ずぶぬれて犬ころ」

が忘れられない。これ、「ずぶぬれの」では句にならない。「ずぶぬれて」だから句になる。 
さて、私は『山崎方代全歌集』を読んでいる。まずは第1歌集『方代』。これまでもくり返し読んでいて、どこになにがあるかは熟知しているつもり。だのに見過ごしている1首があった。

「ずぶずぶにぬれたる犬が袋小路をあてなく通り又通りゆく」。

ここに登場する犬には、放浪する方代自身が重ね合わせられているだろう。行く当てもなく、ひたすらにみじめな自分。
これをまえに「ずぶぬれて犬ころ」が閃いたのは当然といえば当然。なんと似ていること!
けれど、どちらかといえば句のほうがみじめ度が高い。
その理由は時間の有無に関係する。方代には「通りを又通りゆく」時間がある。
それに対し、住宅は一気に無時間へと切り込んでいる。
(2014年3月28日)

【往還集129】31 怨みのある人にも

今朝の『眼蔵』書写は「菩提薩捶四摂法」の「(〇五)」。

「しかあれば怨親(をんしん)ひとしく利すべし、じた自佗おなじく利するなり。」

石井恭二訳では「このようであるから怨みのある人にも親しい人にも変わらずその利益を計らなければならない、その行いは自他にとって同じ利益となるのである。」となる。
これ、どこかで聞いたことあるのでは?
そう、「マタイ福音書」。塚本虎二訳『新約聖書』では、こうなっている、

「敵を愛せよ。自分を迫害する者のために祈れ。」

仏典や聖書を読んでいると、思いがけないところで共通点に出会い、びっくりする。もっとも「マタイ」では「あなた達が天の父上の子であることを示すため」と付け加える。道元では、こうした心ばえを持てば「心身は草木や風や水にも自づと活らいて、変わることはない」とする。
そこで問題は、神と自然は対立し、いがみ合うほどに違うのだろうかということなのだ。
(2014年3月27日)

【往還集129】30 世界文化遺産

『俳句』3月号の「俳壇ヘッドライン」に「俳句を世界の文化遺産に」のタイトルを見つけて、びっくり。
俳句に先を越されっちまう!
「短歌を世界文化遺産に」と唱えてきたのは、このワタクシ。ところ歌界では反応なし。小高賢にも話したことがある。

「遺産になるには滅びなければならん、だいたい短歌は外国人にはわからないよ」

と一蹴された。
『高安国世全歌集』の巻末には、「秋の月」がある。高安の歌を野村修がドイツ語訳した。野村は短歌をまず5行詩にする。たとえば、
原作「くす樟の葉にさやさやと風の吹くきこゆ夜更けて雨の上るなるべし」を5行詩「かすかに樟の木がまた/風にさやぎだす。/雨があがるのだろうか?/そとは漆黒の/この深夜。」に。
これでは、せっかくの韻律が生きてこない。世界文化遺産やっぱりだめかなあ。
もしかして俳句なら可能かも。面倒な韻がない分、世界語へとバックテンできるから。   
(2014年3月24日)

【往還集129】29 旧約

朝読書に、今朝から旧約をはじめた。
書写は『正法眼蔵』、読書は旧約、これではいかにも節操がない。
けれど信仰を持たないものは、神も仏も同じことをいっているではないかと驚かされることがよくある。
今回のテキストは岩波版『旧約聖書』全15巻。
旧約はずっと以前に文語訳で読んだ。

「元始(はじめ)に神天地を創造(つくり)たまへり」

この出だしが荘重で、格好よかった。
今度は口語訳だからそうはいかない。

「はじめに神は天と地を創造した」

ではどこか間が抜けた感じ。
けれどいまの時代、贅沢はいっていられない。まずは「天地創造」を読んでいこう。
神は光と闇を分け、昼と夜を造っていく。家畜と這うものと地の獣を、そして人を造る。つまり杖の一振りで、宇宙世界を次々と創造し、配置していく。
私はふと疑問が湧く、それなら神は誰が造ったの?
それは、たぶん神だ。
神が神を造り、その神もべつの神が造ったのでは。
(2014年3月23日)

【往還集129】28 大川小、訴訟について

大川小の検証委員会が結果を発表、遺族側は不服として、訴訟に踏み切った。
いつかはこうなる、だから部外者がめったなことはいえないと口をつぐんできた。
が、遺族側のまとめ役をやってきた佐藤敏郎氏が原告に加わらないと知って、少し気が楽になった。
訴訟となれば原告も被告もつらい日々となる。原告側の正当性、相手側への憎悪が持続できなければ持ちこたえられない。
74名もの児童が犠牲になったのはあまりにも傷ましい、これははっきりしている。
同時に私の得る情報には、亡くなった先生や教頭先生のこともある。子どもたちを助けられなかった無念は、なによりも先生たちのものだ。
「2度と同じ悲劇を繰り返さない」ことが目的なら、訴訟以外にも方法はある。
けれど責任所在をはっきりさせたいのなら、訴訟もいたしかたない。
佐藤敏郎氏は訴訟でなく、前者の道を選んだ。どちらにしても苦渋の選択だ。
(2014年3月23日)

【往還集129】27 解けない問題

この日のシンポに登場した5人は、大震災に直面しています。3年たった感想にも、おのずと共通面がありました。
あれほどの出来事だというのに、早くも忘れ去られようとしている、けれど震災はひとりひとりが一生負っていくものだという点です。
私もまた同じ思いです。
それに加えて私は、いまだに解決できていない問題を抱えています。原発事故直後から「逃げる」「逃げない」の大混乱が生じました。仙台でも例外ではありません。
そのとき私ははじめから「逃げない」態度をとりました。逃げ惑う人々があわれにも滑稽にも映ります。
しかし「逃げたい人は、どうぞご随意に」の気持ちになってきました。同時に、「逃げない」が倫理的に見えるとしたらそれは本意とは違うという思いが残りました。
踏みとどまることが逃げる人にも負い目とならない在り方、それはどのようにして可能かーーがいまなお解けないのです。
(2014年3月22日)

【往還集129】26 「詩歌の集い」

昨日は仙台文学館を会場に、「詩歌の集い 大震災と詩歌~被災圏からの発信Part3」を開催しました。
『俳句』創刊60周年記念シンポジウムで鼎談したのは、2012年10月のこと。メンバーは俳句の高野ムツオ氏、詩の和合亮一氏、それに短歌の自分。
終わったときに、こういう会は被災圏でこそ開きたいという共通した気持ちになりました。
ところがどの人も超過密なスケジュールに阻まれて、なかなか開催日が一致しない。やっと3月21日の開催にこぎつけました。
ところが、前日からの大雪。キャンセルが相次ぎましたが、80余名の方々が駆けつけてくれました。
第Ⅰ部「ゲスト講話」は釜石在住の俳人照井翠さんと気仙沼出身の歌人梶原さい子さん。 
第Ⅱ部「大震災と詩歌」は、『俳句』鼎談と同じ3人。
詳しい内容は『俳句』の6または7月号に掲載してくれるそうです。機会がありましたら、どうかご覧下さい。
(2014年3月22日)

【往還集129】25 折角らいに罹ったのだから

震災直後からいつになく多作になったことは、『強霜』のあとがきにも書きました。
あのとき脳裏に浮かんだのは、原民喜「夏の花」の一句です。広島の原爆に遭遇した直後の

「このことを書きのこさねばならない」

の衝動。
時を同じくして浮かんだもう1句があります。

「折角らいに罹ったのだから」。

ただ、作者も題も忘れてしまったのでこれまで書かずにいました。
昨日、何の気なしに30数年まえの「読書ノート」を開いたら、記録しているのを見つけた。ライを病む詩人谺雄二の『ライは長い旅だから』の1篇「夢の雪の中で」です。少し読んでみます。

「ここまでくればらいもこれよし/生きて自ららい最後の光芒を放つはまたよし/ようやくにしてボクは/折角らいに罹ったのだからという思いに今夜立っていたのだ」

これにならって私も「せっかく千年に一回の大災害に遭ったのだから全身で見据えよう」と思いました。
(2014年3月20日)

【往還集129】24 「心から」

あの日以来、なんと多くの「心から」を見聞きしたことだろう。
「心からお祈ります」
「心からお悔やみ申し上げます」
「心から復興を願います」
「心からーー」
「心からーー」
まるで心の垂れ流しで、ほとほとうんざりしてしまう。一昔まえは「衷心から」といった。いまさら「衷心から祈る」でもあるまいから、いつしか「心から」になった。
たしかにはじめのころは、本当の「心から」に思われた。
が、常套語化するにつれ、空疎きわまりない語になってしまった。しかも「心から」に実体が伴わなくなったから、いよいよに空疎である。
「福島の復興なくして、日本の復興はありえない」これなども、はなはだしく白けさせる。いっそのこと「福島の忘却なくして、日本の復興はありえない」と明言してもらったほうがこちらも納得する。
ことばの重みがどんどん失われていく時代。沈黙のほうが、どんなにありがたいことか。    
(2014年3月18日)

【往還集129】23 事実だけが

ドストエフスキーの『罪と罰』は20代で読んだ。
今回また、ちょっとしたきっかけで読んでみて、かつてはほとんど重視しなかった個所を見つけた。
2人の老婆を殺害したラスコーリニコフが、シベリアへ受刑に向かう。恋人のソーニャも後を追う。彼女はラスコの妹にあてて、毎月手紙を書き送る。その文面はそっけない。なぜなら感情を交えず、事実だけ書くからだ。はじめのころ、不満を覚えた妹ドゥーニャは、やっと気づく。

「そして、読み終わるころになって、不幸な兄の姿がおのずと浮かびあがり、明確に描きだされるのだった。すべてが確実な事実である以上、ここには誤りの生れようがなかった。」(江川卓訳)

ここに感応したのは、震災詠の問題に直面しつづけてきたからだ。直近のものは事実しか描けなかった。感情を交えるは、距離をおいた人たち。それらのほとんどが、こちらの心に届くことがなかった。 
(2014年3月14日)