【往還集128】49 非テロということ

ときどき、なんのはずみにか啄木の「ココアのひと匙」が浮かんでくる。

「われは知る、テロリストの/かなしき心をーー/言葉とおこなひとを分ちがたき/ただひとつの心を、」。

日本ではテロを聞かなくなって久しい。それだけ平和になったとも熟成したといえなくはないが、はたしてそうか。
年間自殺者3万と聞くたびに、ぞっとするではないか。
これは言葉と行いの分かち難さが外部へでなく、個人へと侵入した数だ。テロでなく、反テロでもなく、非テロの数。
非テロはばらばらの数の集合だから、一瞬悲しみを覚えてもあとは忘れる。
これを逆転させる方法はある。それは3万人が、ある1日を示し合わせ、議事堂前に行って一斉に自裁すること。
テロなら他人の生命を危機に陥れる、けれど非テロは自分を傷つけるだけ。これぐらいのことをやらなければ、政治も社会も本気で動かなくなった。
私たちは、いまや、そういう国に住んでいる。
(2013年12月26日)