なにかの会合があって、人と話をすることがある。誰もが、ふつうの格好をしている。つまり何事もない生活人のなりをしている。
ところが〈あの日〉に話が及ぶと、
「家が流されちまって」
「親が亡くなって」
「兄弟がいまも行方不明で」
「体を悪くしていまも通院中で」
などなどの話題が、とめどもなく出てくる。しかも、誰もが悲壮ぶることなく、ふつうの生活会話のように語る。
私は思う、被災の傷痕は一人一人の内部へ入り込み、外面からはそれと判断できなくなっていると。
現地に降り立った遠来の方々は「瓦礫もずいぶん片付きましたねえ、住民の皆さんも元気を取り戻したようで」などと語る。内部の傷痕が肉眼でとらえられないのはやむをえない。
その結果、世の力は、あれもこれも〈解決済み〉にして、どんどん前へ前へと押していく。人の心などはあってなきがごとし。
これが3年を迎えようとする私の実感です。
(2013年12月24日)