【往還集128】50 10年後の映画

映画「プラトーン」は監督・脚本がオリバー・ストーン。1986年に公開され、第59回アカデミー賞を受賞した。オリバー自身ベトナム戦争に従軍、その体験をもとに10年後に作った。
東日本大震災に関係する映画もいくつかは出ている。
しかし本格的なのはやっぱり10年後からだと思う。
もし自分も監督で、体力もあるならやってみたいところだが、百パーセント無理。せめて構想内容の一端を。
〈男川原発がメルトダウン。10キロ圏内には大きな海岸都市がある。いきなり全員に退避命令。住民たちはつぎつぎとバスに乗り込む。途中まで行って、子どもたちの遺体が散乱している、助かったのも学校屋上に孤立しているという情報が入る。親たちは、子どもを見捨てることはできない、引き返せとバスに迫る〉。
以下どうなるか。これ、単なる空想ではなく、あと一歩で現実となりかねなかったことです。         
(2013年12月27日)

【往還集128】49 非テロということ

ときどき、なんのはずみにか啄木の「ココアのひと匙」が浮かんでくる。

「われは知る、テロリストの/かなしき心をーー/言葉とおこなひとを分ちがたき/ただひとつの心を、」。

日本ではテロを聞かなくなって久しい。それだけ平和になったとも熟成したといえなくはないが、はたしてそうか。
年間自殺者3万と聞くたびに、ぞっとするではないか。
これは言葉と行いの分かち難さが外部へでなく、個人へと侵入した数だ。テロでなく、反テロでもなく、非テロの数。
非テロはばらばらの数の集合だから、一瞬悲しみを覚えてもあとは忘れる。
これを逆転させる方法はある。それは3万人が、ある1日を示し合わせ、議事堂前に行って一斉に自裁すること。
テロなら他人の生命を危機に陥れる、けれど非テロは自分を傷つけるだけ。これぐらいのことをやらなければ、政治も社会も本気で動かなくなった。
私たちは、いまや、そういう国に住んでいる。
(2013年12月26日)

【往還集128】48 私の「?」

私の抱いている「?」のいくつかを紹介します。
震災の数年まえ、一級建築士が設計図を偽造して大騒ぎになったことがあります。あのときの建築物は全部補修されたのか、された結果震災に耐えられたのか、補修されないままびくともしないのもあったのか、それを知りたい。
仙台に東北電力ビルのグリーンプラザがあります。一階には原子力の輝かしい未来を謳歌する展示物があった。ところが事故直後に姿を消した。あれだって、立派な震災遺構なのにね。
原発は絶対安全である、国策であるとして推進してきたのは、周知のとおり。
それなのに「東京に原発を!」の声を一蹴したのはなぜ?
絶対安全を自ら証明したいなら、推進派科学者も担当大臣も東電幹部も、家族もろとも現地に住むのが一番のやりかた。
だのにゼロはどういうわけ?
今からでも遅くない、公舎ぐらいは用意するから是非住民になって!ただし、単身赴任はだめ。都合悪いと、すぐに逃げてしまうから。
(2013年12月25日)

【往還集128】47 3年の歳月

なにかの会合があって、人と話をすることがある。誰もが、ふつうの格好をしている。つまり何事もない生活人のなりをしている。
ところが〈あの日〉に話が及ぶと、

「家が流されちまって」
「親が亡くなって」
「兄弟がいまも行方不明で」
「体を悪くしていまも通院中で」

などなどの話題が、とめどもなく出てくる。しかも、誰もが悲壮ぶることなく、ふつうの生活会話のように語る。
私は思う、被災の傷痕は一人一人の内部へ入り込み、外面からはそれと判断できなくなっていると。
現地に降り立った遠来の方々は「瓦礫もずいぶん片付きましたねえ、住民の皆さんも元気を取り戻したようで」などと語る。内部の傷痕が肉眼でとらえられないのはやむをえない。
その結果、世の力は、あれもこれも〈解決済み〉にして、どんどん前へ前へと押していく。人の心などはあってなきがごとし。
これが3年を迎えようとする私の実感です。
(2013年12月24日)

【往還集128】46 耳鳴り記念日

今年ものこりわずか。1年間をふり返って所感を記すことにする。
とはいっても、鬱寸前の事柄ばかりがつるつると出てくるので我ながら困る。
今日は12月20日。去年の今日、いきなり耳鳴りのはじまった日だ。左耳の奥にキーンと金属質の平板な音が生じ、そのまま住み着いてしまった。朝、昼、夜、いつでもキーンで、夜には不眠状態となる。
この不安と苦痛。
耳鳴り専門医を見つけて諸検査。結果は「病気ではありません、細胞が壊れたので現代医学では治療困難、原因は老化やストレスと考えられています」。ストレスについてなら、3・11以来思い当たることが山とある。
以来、薬による対症療法をつづけているが、同じ症状が多発していることを、通院するたびに知るようになった。

「昼となく夜となく生(あ)れて切れ目なし金の延べ棒のやうな耳鳴り」

これ、自作。「金の延べ棒のやうな」は修辞でなく実感そのままです。
(2013年12月20日)

【往還集128】45 箝口令・続

以下は叔父の話の概要。
〈満州の部隊に配属され、中国人を捕まえて来て収監する。かわいそうなので目を盗んでは煙草をやったりした。男たちは引き立てられて次々に消えていく。どこへ連れて行かれるのか現場を見ることはなかったが、生きたまま実験材料に使われているという噂だった。敗戦に傾いた頃証拠隠滅の命令が下され、書類をどんどん焼却。敗戦避けがたしの報は一般人には秘匿され、まず軍属の家族が帰国した。つづいて自分らが一般人に先駆けて乗船〉。 
叔父の配属されたのは731部隊、正式名を関東軍防疫給水部という。初代部隊長が石井四郎であるところから石井部隊とも通称される。
徹底した証拠隠滅にもかかわらず、やがて多くの証言は出てきた。
そういう日が到来するまで、厳しい口止めは本人だけでなく家族・一族全員に重圧を加えてきた。
国家権力の強要する秘匿には、いつでも暗部が付随する。
(2013年12月7日)

【往還集128】44 箝口令

きのう深夜に参院本会議で採決された特別秘密法については、語りたいことが山のようにあるが、ひとつの挿話のみ記し留めておきたい。
父親には兄がいた。私にとっては叔父にあたる。岩手の農家の長男だ。当時長男の徴兵は極力抑えられてきたが、ついに赤紙が。満州へと渡る。
敗戦直後に帰還し、農家の後継ぎに復帰する。
が、ただの歓びの復帰ではなかった。満州を去るに際し、厳重な箝口令がしかれた。洩らしたりしたら逮捕され、家族もろとも罰せられるというのだ。
そうはいっても家族・親族に沈黙してはいられない。こそっと洩らす。
以来、誰もが「その事」には触れず、表面ではさりげなく暮らしはじめる。どこかに重ったるい空気は澱んだまま。
そのうち自分も大人になる。叔父も老いはじめた。「その事」の詳細を知るチャンスを逃してはなるまい。
ある年の暮れに帰省、酒を酌み交わしながらたっぷり聞いた。
(2013年12月7日)