高校時代、年に一度全校をあげてのイモノコ会があった。学校は山手にある。そこから一時間もかけて北上川まで歩き、河原で火を焚く。
学生になって仙台へ。やはりサークルの秋の行事に組まれていた。コチラでは「イモニ会」というのだと、はじめて知った。イモニ会をやるのは東北だけだということもはじめて知った。
そのイモニ会、町内会の恒例行事でもある。住人にプロの料理屋さんがいて、その人が指導してくれる。東京で毎日2千人分の調理をしてきたという大ベテラン。
自分も役員だから、側で手伝う。大鍋二つに湯を沸かし、大量のイモノコを入れる。皆で灰汁取りをする。「仙台風イモニ」「山形風イモニ」と2種類あり、醤油と味噌で味付けをする。食材も違う。肉も葱も白菜も山のよう。砂糖も酒もどっと入れる。やがて匂いが周辺に立ち上る。
その豪快さは、料理というよりもスポーツそのものだった。
(2013年10月12日)
月: 2013年10月
【往還集128】18 『かたすみさがし』から
田中ましろ歌集『かたすみさがし』(書肆侃侃房)から。
「人間は自由過ぎても困るから青空に軟禁されている」
「神さまも発見されてしまったしもう絶対と呼ぶものがない」
「石ころに引かれて進むこどもたちと思ったらなんだ蹴っていたのか」
「いなくなるために準備をするように背伸びしながら窓を拭く人」
「3階の窓から空に向け飛ばす輪ゴム 神さま僕はここだよ」
抽出したい歌はまだまだあるが、とりあえずここまで。この田中の世界を表現するうまいことばが見つからない。短歌の大方は人事の具象から出発する。それがこの詩型の欠陥ともなるが、田中は具象というよりも、いきなり宇宙とか神のまえに自分を置く。そのいきなり度は、幼児性にも通じる。というか宇宙性と幼児性は、紙一重のところがある。
「青空に軟禁されている」自分も幼い日に、同じ思いで草に仰向けになっていたことがある。その記憶が甦ってきた。
(2013年10月11日)
【往還集128】17 「 」
「短歌研究」10月号は第31回「現代短歌評論賞」の発表。受賞には到らなかったが、鈴木恵子「短歌は何をめざすか」の冒頭に目が引き寄せられた。
いきなり「●」を例示し「右記の黒丸は、短歌である。と、考える人は何人いるだろう。では、俳句と思う人は?正解は詩である。」とある。
この出だし、衝撃的と思ったら、正解の根拠に草野心平「冬眠」が。この種明かしにはがっくりだが、「冬眠」がなくても「●」は短歌でも俳句でもなく、やっぱり詩だ。
それならば「 」はなんだろうか。「 」とはつまり、なにもない空白状態。
この場合は歌でなく詩でもなく、俳句だ。「零は可能か」(『横書きの現代短歌』)にすでに述べたことだが、100メートル競走は限りなくゼロをめざす。これに相当するのは俳句。「うごけば、寒い」
は「寒い」になりついには「 」になる。
ただし問題は、「 」になったとき、なお人に伝わるかどうかだ。
(2013年10月10日)
【往還集128】16 ご要望
近くのスーパーの入り口には「ご要望記入」の用紙がある。記入欄の下は「店回答欄」となっており、回答のうえ掲示するようになっている。
この「ご要望」形式のアンケートはあちこちで、病院、学校でも流行っている。某大学では講義が終わるごとに学生から回収して、上部に報告するとか。患者も生徒もお客様の時代になってしまった。
ところでスーパーの掲示を読んでいたら、「○○売り場の◇◇君、かわいい」
「レジの○○さんの笑顔、いつもすてきです」などはまずいいとして、
「魚売り場のオッチャン態度が暗い」
「自分の売り場のことしかわからない、プロ意識がない」
などの好き勝手なことが次々と。
自分も投書してきた。
「客はいいたい放題のこと書いていますが、お店にとってもこんな客は困る、やめてほしいと思うことがあるのではないでしょうか。両方から注文を出し合ってこそ、いいお店になると思います。」
(2013年10月8日)