なにかの集まりがあると「あの日はどうしていましたか」と尋ね合うことが多い。「あの日」だけでどの日なのか通じ合う。
すると、浜の実家が流されて、親が今も行方不明で、兄弟が亡くなってなどなどの話が次々に出てくる。語り合うまでは誰もが普通の顔をしている。だのに、あるきっかけで、普通の底に沈んでいたことが噴出する。
そういう自分も、仙台と福島の叔父の関連死に翻弄された日々が、なまなましく甦る。
けれど、生きていくためには、なまなましさを保ちつづけるわけにはいかない。〈事件〉としての「あの日」を忘れていかなければ、まえへ進めない。
だのに〈事件〉は薄れても、あのときに確かに見てしまった深淵を逃れることはできない。深淵とは、具体としての〈事件〉を超えて、人間そのものに直結するなにかだ。
そのなにかにことばが届いたとき、文学としての震災詠ははじめて成立するだろう。
(2013年10月14日)