書棚を整理していたら「読書ノート」3冊を見つけた。
「短歌評論」
「小説・詩」
「一般」
と分類された3冊。
かなり黄ばんだページをぱらぱら開いたら、びっしりと埋まっているではないか。ノートしたこと自体を忘れていた自分はびっくりし、多少落ち込んだ。
〈若いころはただ読み飛ばさずどの分野であれ心にかかった個所を丁寧にノートしていた、ところがいまはどうだ、歌集だけは主要作品を記し留めているが、あとはちょこちょこと本の空白にメモするだけ、繁忙にかまけていつのまにか手抜きをするようになってしまった、そうしているうちに残り時間も少なくなってしまったではないか〉
と我が身を叱る。
改めて読んでいったら、すぐれた言葉の宝庫だと気づく。少し抜き出してみる。
「ひとはもはや運命に耐えられなくなれば、自殺することができる。このことを知っておくことは、よいことだ。だが、人間は生きているかぎり、完全に失われることはけっしてないということをしっておくことも、またよいことである。」(レマルク『凱旋門』より)
「--選手たちは 田園から/ふたたび都市へとはいった/そのとき 沿道の/観衆から/ふかい どよめきがおこった/ざくろを掌にした死児がひとり/かげろうのように/選手のむれと走っているのだ」(尾花仙朔「マラソン」より)
「本当に力といえるもので、持つに値するものは、たった一つしかないことが。それは、何かを獲得する力ではなくて、受け入れる力だ。」(ル=グウィン 清水真砂子訳『ゲド戦記Ⅲ』より)
「飛星は水を過ぎて白く/落月は沙に動きて虚なり」(杜甫「中宵」より)
「正しく見るには二度見るがよい。美しく見るには一度しか見てはいけない。」(大塚幸男訳『アミエルの日記』より)
「詩人とは魂の定義において生き難い人のいい謂であろう。純粋詩人とはもっとも生き難い人のことだ。」(上田三四二『祝婚』より)
(2013年8月6日)