【往還集127】18 胸乳(むなち)のこと

宮柊二『山西省』論を進める過程で、いつかは取り上げなければと考えている歌集がある。
川口常孝『兵たりき』だ。中国出征体験をもとにした歌群で構成される。
そのなかに「渇を癒すと」の長歌+短歌がある。水を欲する日本兵が民家に入る。赤子を抱く若い女性がいる。一人の兵が赤子を「われ」に託し、女性の胸乳を吸って渇を癒す。

「その女人静かに応じ 拒む気配全く見せず 吸わるるに任せて暫し 時の流れに己を委ぬ。ようやくに出ずなりにたる 乳房に深き礼(いや)して その兵のそこを離れぬ。その刹那思いも寄らぬ 極まりし慟哭の声 兵の身を根こそぎ揺すり 朝寒の空気震わす。」

このように感動的な描き方をしている。川口常孝には、真に迫る戦争歌がいっぱいある。まさに戦争歌人として屈指の人だが、なかでもこの場面は抜きんでて印象的だ。戦中というのに、敵味方を超えた美談がありえたのかと。
(2013年7月21日)