「わたくしにいんけい生える朝があり無花果色のシーツを干しぬ」
というのもある。男に朝立ちがあるように、女にも朝に性欲の兆すことはある。それが「いんけい生える」だ。
私がこれまで抱いてきたテーマに、性差問題がある。性は当人の選択がないまま、全くの偶然によって振り分けられる。そして世の強制力によって一方の性を強いられる。だが実際は誰もが両方の性を持ち、究極においては「ひとつの性」であるにすぎない。その象徴としてあるのが、エクスタシーの瞬間だ。
ということを筋道立てて書けないものかと「華の激湍(げきたん)」を構想したことがある。しかし、そこまでやる時間はもうない。
佐藤羽美を読んでいると、性差を負って生まれ、その軋みに出会いながらも、ついには性差の彼方の「ひとつの性」を透視しはじめていると、私には感じられる。
これは巨視的にいえば、今後の人間を拓く新しさでもある。
(2013年4月23日)