宮沢賢治を考えてきて、悩ましいのは宗教の問題だ。彼が激烈な日蓮宗信者であり、父親とも死闘に近い争いをしたことは、よく知られている。だのに他方では牧師と交流があったり、「銀河鉄道の夜」というキリスト教の色合い濃厚な名作も残している。
この大矛盾をどうとらえるべきか、さまざまに論じられてきたが、どうも納得しきれない。
今日、木下長宏「〈失われた時〉を見出すとき(一〇四)」(「八雁」1月号)を読んで、サーッと霧の晴れる気分になった。木下は世界の宗教の暴力性を指摘する。ユダヤ教、イスラム教、キリスト教然り、仏教もまた。分裂し、他宗派に対する憎悪と暴力を繰り返してきた。
「おそらく、宮沢賢治は、まだ、宗教という活動が抱えている分派への欲望と他宗を許さない残酷さについて答をみつけられないまま死んでいった。彼を不用意に日蓮宗の信者だったと呼ぶわけにはいかない。」
なるほど!
(2013年1月4日)